近世の山形県教育史 藩校・致道館と町人教育、育まれた自学自習の風土
庄内海岸から奥羽山脈や出羽山地など、複雑な地勢のもと、戦国時代には土着豪族が抗争を重ねた山形県。江戸時代には各地に藩校が設立され、特色ある教育が行われていた。米沢藩の興譲館、庄内藩の致道館、さらに庄内の町人教育から、近世から近代に至る山形の教育の一端を振り返る。
米沢藩の藩校興譲館
儒学から医学、洋学へと発展
「治教一致」を掲げ、藩校興譲館を設立した米沢藩9代藩主の上杉鷹山。
米沢藩では、9代藩主の上杉鷹山(ようざん)(治憲(はるのり))が、藩政の基本精神として政治と教育を一体化させる「治教一致」を掲げ、1776(安永5)年、藩校興譲(こうじょう)館を設立した。興譲館という名は、儒教の経書『大学』にある「一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興る」という一節から取られた。
興譲館で学ぶ生徒は、10歳前後の通学生が「素読生」と呼ばれ、『四書五経』を中心に『孝経』『小学』などを読み、通学する15~16歳以上の「友于堂(ゆううどう)生」は、…
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