知識と対話で職場が変わる ワークルール教育のすすめ

時間外労働の上限規制の改正、同一労働同一賃金の規定の整備など、労働法の改正で働く人の権利を守る仕組みの整備が進む。一方で、経営者・労働者双方の知識不足といった課題がある。弁護士で北海学園大学教授の淺野高宏氏に現状の課題と「ワークルール教育」の意義を聞いた。

裁判ではなく話し合いで解決を
ワークルール教育が必要な理由

淺野 高宏

淺野 高宏

北海学園大学 法学部 教授/
ユナイテッド・コモンズ法律事務所 弁護士
2002年弁護士登録。法律事務所勤務を経て2014年にユナイテッド・コモンズ法律事務所を設立。2011年から北海学園大学法学部准教授、2017年より現職。専門分野は労働法。NPO法人職場の権利教育ネットワーク理事としても、ワークルール教育の普及にも取り組む。著書に『18歳から考えるワークルール』(法律文化社、共著)、『学生のためのワークルール入門』(旬報社、共著)、『新型コロナウイルス対策!職場の労働問題Q&A』(旬報社、共著)ほか著書多数。

── 2018年1月に共著『18歳から考えるワークルール』(法律文化社)を上梓され、NPO法人「職場の権利教育ネットワーク」理事として「ワークルール教育」の普及活動をされています。現状の課題をお聞かせください。

淺野 この10年ほどで労働法の改正が続いています。時間外労働の上限規制に関する法改正や雇用形態による待遇格差を解消する「同一労働同一賃金」に関する規定の整備など労働法が大きく変わり、専門家でも追いつくのが大変なほどです。

企業の法改正への対応や必要な労使コミュニケーションは欠かせませんが、経営者・労働者ともに理解が追いついていないと感じます。働く人が制度を知らずに不条理な職場環境に置かれ、泣き寝入りしたり、辞めてしまうケースは未だに少なくありません。労働者の権利を守る制度が整っても、それを知って行使できなければ意味がないのです。

── ワークルール教育の意義をどのようにお考えでしょうか。

淺野 問題は、経営者・労働者双方のワークルールに関する知識不足です。法的な制度を知ることは、自衛の力になります。単に裁判を起こすためではなく、職場での話し合いを通じて解決していく。感情的にならずに、冷静に問題を整理し対話することができます。経営者も人材の定着を希望しているはずで、職場のコンプライアンス向上にもつながるでしょう。その積み重ねが、労働環境全体の改善に直結します。これがワークルール教育を広める意義です。

── 大学での取り組みについてうかがえますか。

淺野 2016年頃に早稲田大学が全入学生にワークルール関連の冊子を配布していたことがありました。それを参考に北海道内の労働法、社会保障法の研究者と弁護士有志で作成したのが『学生のためのワークルール入門』(旬報社)です。北海学園大学では、入学時にこれを全学生に配布しています。賃金、労働時間、罰金、労災、いじめ、留学生の労働、インターンシップなど、学生に最低限知ってほしいテーマをQ&A形式で解説しています。基本的なルールを知っているだけで、アルバイト先のトラブルを防げますし、働くことを諦めずに問題解決するヒントになるはずです。

知識が自分と仲間を守る
労使コミュニケーションが鍵に

── ワークルール教育を通じて、学生にどのような力を身につけてほしいですか。

淺野 知識を得るだけでなく、問題が起きた時に「どうすればよいか」を考えることです。無関心でいると事態は悪化します。多くの仕事は基本的には仲間と行っているので、自分の困りごとは同僚の困りごとでもあります。興味関心を持って、話し合いながら一緒に解決していく。憲法でも労働者の団結権が保障されていますし、勇気をもって声を上げれば法的に保護される仕組みがあります。権利を行使する自衛力を身につけてほしいのです。

── 実際に学生からの相談も多いそうですね。

淺野 一番多いのは労働時間に関する相談です。「30分前に来て準備するように言われたが、その分の賃金は出ない」とか、「15分単位で切り捨てられている」といった声が聞かれます。準備時間も労働時間に入るのを知らないまま働いている学生が多く、トラブルの原因になりがちです。知識を基に対話することで、職場は変わります。冊子を読んだ学生が「これってなんか違うみたいですよ」と店長に伝えたところ、店長が本部に確認して改善された例もあります。自ら考えて行動できるようになることは大きいと思いますね。

── 社会的にも注目された事例があったそうですが。

淺野 2015年にNHKの「クローズアップ現代」で放送された“ブラックバイト被害”特集で、私のゼミの学生が取材を受けました。その学生は生活費を稼ぐために深夜までバーテンダーをしていました。退勤時間には公共交通機関がないので、店長が車で送ってくれていたそうです。

しかし、給与から「運搬費」として数万円が天引きされており、死活問題になっていました。相談を受けた私は、労働基準監督署に行ってみるよう助言しました。その結果、是正勧告が出て、本人の減額分だけでなく、従業員全員の未払い分が支払われたそうです。知識を持って行動することで状況を変えられるという、非常に象徴的な事例だと思います。

学校と社会で学びの輪を広げる
誰もが安心して働ける社会へ

── 先生はワークルール教育の出前授業もされています。

淺野 中学や高校から依頼を受けて、外部講師として授業を行っています。ただ、実施校は多くありませんし、法律用語の難しさから、生徒が理解しにくい場合もあります。

そのため、事前に先生方と相談し、具体的な事例や身近な話題を入口にする、クイズ形式にするなどの工夫をしています。健全に働くというテーマへの関心を高めることが大切です。時には生徒より先生のほうが熱心で、たくさん質問されることもありますから、やはり社会人も学ぶ必要があると強く感じています。

── ワークルール教育普及に向けて今後の展望をお聞かせください。

淺野 学校現場でのワークルール教育は、まだ十分に体系化されていません。講師の確保やカリキュラムの策定など、課題は多くあります。社会人向けの学び直しの中でもワークルール教育を取り入れる動きが出ています。働く人すべてが自分の立場を理解して行動できるようになることが重要です。

「ワークルール検定」※1の普及にも力を入れています。労働に関する基礎知識の検定で、これまでに約2万人が受験しています。2025年度からはインターネットで自宅等からも受験できるIBT(Internet Based Testing)方式を導入しました。より多くの人に学ぶ機会を広げるための仕組みで、今後は子どもや若年層に向けた試験も検討しています。

── 最後にメッセージを。

淺野 ワークルール教育を社会全体に浸透させるため、法制度として定着させることも重要だと思います。「ワークルール教育推進法」※2をつくる動きも活発化しています。文部科学省と厚生労働省が連携し、教材開発や講師育成に予算措置を講じれば、全国的な広がりと持続可能な活動が期待できます。

職場や教育現場からの反響とニーズに対応していくことも大切です。今後も問題意識をもつ方々とのネットワークを広げ、協働しながらこの教育の普及を目指していきます。

※1 一般社団法人日本ワークルール検定協会が実施する誰でも受検できる検定制度。初級・中級検定がある。
※2 2025年3月、日本労働弁護団はワークルール教育推進法の早期成立を求める声明を公表。また、超党派による「非正規雇用労働者の待遇改善と希望の持てる生活を考える議員連盟」においてワークルール教育推進基本法の制定を目指す動きが見られる(2025年2月)。