時代の不確実性を可能性に転換するには:福沢諭吉のグランドデザイン
2024年、社会構想大学院大学に設置された社会構想研究科。社会のグランドデザインを描き、実装できる人材の養成に取り組んでいる。しかしそもそも、社会構想、グランドデザインとは何なのか?それなしには今日の世界があり得なかった12人の社会構想家の実践から、同研究科の教員がリレー形式で解説。
明治維新を単なる混乱ではなく
可能性の宝庫と捉えた福沢諭吉

先﨑 彰容(せんざき あきなか)
社会構想大学院大学 社会構想研究科 研究科長・教授
専門分野:思想史
担当科目:社会構想概論、社会システム論
1975年東京都生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院日本思想史博士課程修了。博士(文学)。日本大学危機管理学部教授を経て2025年4月より現職。『維新と敗戦』(晶文社、2018年)、『国家の尊厳』 (新潮新書、2021年)、『本居宣長』(新潮選書、2024年)、『批評回帰宣言』(ミネルヴァ書房、2024年)など著書多数。
福沢諭吉(1835‐1901年)と言えば、『学問のすゝめ』がまずは思い浮かぶ。明治5(1872)年、これからの時代は全ての人が「学問」をしなければならない。手紙の書き方や帳簿のつけ方、算盤の練習や天秤の使い方といった「実学」こそ「学問」であり、身に着ける者は社会的地位が高まり、金銭的にも恵まれた人間になることができる、と彼は主張したのである。
令和の私たちからすると当たり前のことを説いたこの小冊子は、なぜ当時大反響を呼んだのか。理由は二つあって、従来、江戸時代までの常識で学問と言えば、儒学の漢文を一生懸命読むとか、詩歌の手習いを受けるといったイメージが定着していた。学問とは、仕事とは無縁の娯楽、あるいは有閑階級の時間潰しだと思われていたのである。だから「学問=実学」、つまり日常生活に直結し、実装できる学びが「学問」であるという福沢の定義は、当時とても斬新で、あっと驚くものだった。あなたの人生にも関わりますよ、と言われたようなものだからである。
反響を呼んだ第二の理由は、時代が大きな転換点にあったからである。福沢は幕末から明治初期の日本人が右往左往する有り様を克明に記録している。江戸時代の価値観が急激に壊れていく中、日本人は三種類の行動を取る。旧来の価値観にしがみつき、西洋文明を拒絶する人がいる。逆に西洋文明の新しさに眩暈を起こし、なんでも正しいと思い込んで飛びつく人がいる。最後に、昔の価値観がもう信じられないのに、一方で新しい価値にも馴染めず、無色透明の人間になってしまい発狂する者がいる――。
明治維新とは要するに、従来の社会構想が通用しない時代のことをさす。未来のモデルが未知数であり、「不確実性」が高い状態を生きることを強いられる。この「不確実性」を前に、尻込みすれば第一の日本人となり、楽天的に過ぎれば第二の人間となり、立ち止まって困惑すれば第三の日本人になるだろう。
福沢が強い調子で「学問」の必要性を訴えたのは、「不確実性」の高い未来を肯定し、未知の世界に躍り込んでほしいからである。「学問」をすれば社会的地位が上昇すると説くことで、自分で自分の道を切り拓いてほしい、「農民の子供、必ずしも農民にあらず」なのであって、「不確実性」とは、多様な選択肢を選ぶ権利を意味する肯定的で明るいものだと言いたかったわけだ。
でも、やみくもに飛び込んだら単なる西洋崇拝者になってしまい、「先進国フランスでは〇〇」、「イギリスでは××」という、現在でもしばしば見かける人材しか生まれない。では、こうした安易で軽薄な西洋主義者ではない人材を、どうすれば日本に輩出できるか。過渡期であり、大きな変革のビジョンが必要とされる時代に、まず何をするべきか――こうした意図に基づいて書かれたのが福沢の主著、明治8(1875)年の『文明論之概略』である。
不確実性を可能性に変えるには
「智恵」と「文明」が不可欠
その影響力がどれくらいすさまじいものだったのか、一例を示してみよう。中国文学者の竹内好によれば、明治以降の日本の近代化とは、福沢の設定したレールのうえを走りつづけることだった。通常、明治から戦前までの近代史は、西洋文明の模倣で幕を開け、それが日清日露戦争をへてひと段落するとアジア回帰がはじまり、その頂点が「大東亜戦争」だとされる。しかしこの歴史観は間違いなのだと竹内は言う。「福沢の思想は終始一貫、日本国家の思想の中核となったと私は考えるのである」。
その思想とは、より具体的には、西洋流の近代化を唯一のコースだと考える「文明一元観」である。文明・半開・野蛮の三段階を設定し、欧米が文明の段階にあるのに対し、日本は半開に甘んじているというこの歴史観は、明治8年に『文明論之概略』において設定され、結局、終戦の昭和20(1945)年までの日本の社会構想モデルになったのだ――竹内はこのように定義してみせたのである。
『文明論之概略』を貫くテーマは、文明社会とは活動的で変化が速く、複雑さを増す「多事社会」だということである。こうした社会では道徳的に優れていることよりも、「智恵」の働きが重視されると福沢は言う。道徳はあくまでも個人が真面目に生きるための行為なのであって、広い社会全体に影響力を及ぼし、変えていくためには「智恵」の方が、明治の今においては重視されねばならないのだ。
これに対して、福沢が日本の宿痾だと考えていたのが「権力の不均衡」である。日本には「交際」がない。対等な人間同士が活発に意見を交わすことを「交際」と言うならば、日本人には必ず権力の上下関係があり、男女関係から親子の間、師弟関係にいたるまで、人間交際のあらゆる場面に「権力の不均衡」が存在するのである。
なぜ福沢はここまで「権力の不均衡」を嫌ったのか。その理由は、いったん上下関係が定まると、数百年にわたって社会構造全体が固定化してしまったからである。武士は武士のまま実力の有無を問われず、百姓を見下している。こうした状態は精神的な奴隷状態なのであって、自分で創意工夫をしようとしない。今、西洋諸国から襲ってきている新しい事態に対し、自分で考え、判断し、取捨選択することができないのだ。すべてお上任せで逃げてしまうのである。
だから福沢は『文明論之概略』の最終章を、「自国の独立を論じる」と題し、なぜ日本人が西洋文明を摂取する必要があるのかという問いに対し、それは日本国を独立させるためであると言ったのだった。西洋文明は「独立自尊」の精神、物理学に代表される実験精神、そして何より「智恵」を重んじるからこそ、日本の独立を守るためには学ばねばならないと説いたのである。
だが先にも見たように、日本人には「権力の不均衡」が染みついてしまっている。彼らは幕末の大混乱と価値観の空白に直面し、「不確実性」が高まった時代になっても、いまだにお上に責任転嫁し、「智恵」を絞ろうとしないのだ。だからこそ、福沢は西洋文明を学ぶべきだと人びとに説いたし、その具体的実践マニュアルとして『学問のすゝめ』を書いたわけだ。
さて、今から150年前の福沢の問題意識は、令和の私たちに余りにも多くのヒントを与えてくれるのではなかろうか。バブル崩壊後、30年以上にわたって私たちが経験したのは、「経済成長一辺倒」に代わる新たな社会構想を生み出せないという事態であった。言いかえれば、30年にわたる「不確実性」は肯定的で明るいものであるどころか、非正規雇用であれ、少子高齢化であれ、地方の衰退であれ、暗く不安なものであった。
だとすれば、「不確実性」に対し「智恵」と「文明」を処方して、可能性と選択肢に開かれた明るい未来を目指すことが、今求められている。私たちが社会構想を実践するとは、福沢諭吉の立場に立って、令和日本をデザインする野心を持つことに他ならない。