「新たな共和国」をゼロから築くには:ジョージ・ワシントンのグランドデザイン

2024年、社会構想大学院大学に設置された社会構想研究科。社会のグランドデザインを描き、実装できる人材の養成に取り組んでいる。しかしそもそも、社会構想、グランドデザインとは何なのか?それなしには今日の世界があり得なかった12人の社会構想家の実践から、同研究科の教員がリレー形式で解説。

アメリカの「建国の父」ワシントン

下平 拓哉

下平 拓哉

社会構想大学院大学 社会構想研究科 教授
専門分野:政治学、安全保障論、戦略論
担当科目:政策過程論、公共哲学、グランドデザイン構想実践ほか
1963年北海道生まれ。防衛大学校卒業。アメリカ国防総省アジア太平洋安全保障研究センター・エグゼクティブコース修了。博士(政治学)。元海将補。アメリカ海軍大学客員教授、防衛省防衛研究所主任研究官、事業構想大学院大学教授等を経て現職。著書に『日本の安全保障―海洋安全保障と地域安全保障』、『日本の海上権力―作戦術の意義と実践』(以上、 成文堂、2018年)、『アメリカ海軍大学の全貌』(海竜社、2017年)。

今でこそ世界唯一の超大国であるアメリカ合衆国は、はじめから大国であった訳ではない。当時世界一の軍事力を誇ったイギリスとの戦争を何とか終えた弱小国アメリカは、国家発展のために智慧を絞った。その後、世界の覇権を握るまでに発展する超大国の基礎を支え続けてきたのが、アメリカ人の智慧である。今日に至るアメリカの制度をグランドデザインしたのも人であり、制度を動かしてきたのも人である。

アメリカ合衆国の「建国の父」ジョージ・ワシントンは、「革命家」とも称されている。日本やイギリスでは一般に「アメリカ独立戦争」と呼ばれる戦争は、アメリカでは「革命戦争」(American Revolutionary War)であり、ワシントンを筆頭とする「建国の父たち」こそ、この革命を成し遂げることができた推進力であった。ワシントンはまさに、アメリカ合衆国のグランドデザインを描いた社会構想家と言える。

「新たな共和国」の建設

政治学者ベネディクト・アンダーソンがいう「最初の国民国家」を造り上げるにあたって、アメリカ合衆国という「想像の共同体」は文字どおり人工的に創造されねばならなかった。それまでの王制から離脱し、新たな体制たる共和制を採用することで、いわば革命によって創り上げられたアメリカ合衆国は、新たな共和国である。国王が存在しない代わりに、有徳な市民が公益を優先させ、公益の防衛を謳う共和主義による統合を図った。

1775年4月、革命戦争の戦端が開かれると大陸会議が招集され、13の植民地を束ねた大陸軍の創設が決定。かつてのフレンチ・インディアン戦争で植民地人として最大規模の軍を指揮した経験があり、ヴァージニア植民地で政治経験を積み、大陸会議のメンバーであったワシントンが総司令官に任命された。

1776年7月4日、独立宣言に署名し、13州からなる連邦国家、世界史上初の近代的共和制国家となった。新たな共和国となったアメリカ合衆国の中心的価値は、平等、自由、幸福の追求などの基本的人権と、圧政に対する革命権である。

50州へと至る歩みそのものが、不断の国造りのプロセスに他ならない。1782年に議会により制定されたアメリカ合衆国国璽の図柄の一部として、リボン状の装飾の上に書かれている「エ・プルリブス・ウヌム」 (E pluribus unum) は、「多州から成る統一国家」であることを示している。人類が追い求める多人種・多民族共生システムの最善モデルに近いものかもしれない。

世界初の成文憲法

新たな共和国の始まりを明確に印づけているのが、世界初の成文憲法の制定である。憲法のもとに様々な権利が保障された新たな独立国家の誕生である。アメリカ合衆国憲法の影響力は、明治憲法を含め世界中に伝播し、今日に至るまで甚大である。成文憲法の始まりこそ、アメリカ革命最大の功績である。

革命戦争の終結に伴い、連合会議は求心力を失いつつあった。その目的は、連合規約の改正、そして連邦憲法の制定という新たな政治秩序の構築へと移っていった。連邦憲法制定会議は、ワシントンが議長となり4か月の侃侃諤諤の議論を交わした。今日の高い評価とは裏腹に、会議参加者の不満も多く、署名拒否もいたが、1788年7月、13州のうち9州の批准をもってようやく発効、ここにアメリカ合衆国が始まった。

憲法の規定に従って、最初の大統領選挙が行われ、1789年4月、ワシントンは満場一致で初代大統領に選出された。アメリカ革命が革命と言われるゆえんは、会議における多くの立法者たちの対立と妥協の連続と、それに伴い生じた微細な政治バランスが、今日に至る巨大な連邦国家の統合を促し、国家の基礎を作り上げた点にある。

ハードとソフトの国造り

アメリカ合衆国の国造りは、ハードとしての政治的制度設計とともに、ソフトとしての国民造りからなる。

ワシントンが国父であれば、国母のイメージが星条旗というシンボルである。ニューヨーク州立大学のフリッシュ教授の研究によれば、南北戦争以前のアメリカ史において、すぐに思い浮かぶ人物としてはワシントンがダントツであるが、政治家や軍人以外ではと言われたら、最初の星条旗を作ったベッツィ・ロスが第1位である。星条旗誕生の経緯には謎めいたところも多いが、アメリカ合衆国のナショナル・アイデンティティを形成したことは間違いない。

マキャヴェッリの『ディスコルシ』は、国家の始まりの条件を論じ、国家の繁栄に必要とされる市民の活力や徳は、どうしたら腐敗することなく保たれるかを検討した。その答えは、私利私欲を持たない国家の創始者が、宗教の力も借りつつ素晴らしい法律や統治機構を作り、その制度設計によって市民を涵養し続ける、というものである。これはまさにワシントンが成し遂げた姿と一致する。

ポリビオスの『歴史』によれば、革命とは新しい何かを始めるもの、そして循環するもの。アメリカ革命は、歴史に残る新たな時代の始まりなのであり、その新しい国家のグランドデザインを描くのは、その創始者たるべき人たちの新しい精神である。

民主的統治者の鑑

アメリカの独立が認められた後、ワシントンは総司令官をすぐに辞任し、大陸軍は最小限の兵力を残して解体された。ワシントンは大統領を2期務めたが、1796年9月、大統領を辞す「告別演説」を表明した。そして1799年12月14日に、故郷のヴァージニアにて逝去した。

ワシントンは、皇帝となったナポレオンとは異なり、決して王になろうとはしなかった。権力の座に恋々とせず、潔く役職を退く模範である。まさに古代ローマ人の美徳と武勇を現す人物として後世に長く伝えられたキンキナトゥスを彷彿させる。

憲法制定者たちが大統領制を構想するとき、大統領になるべき人物として念頭においていたのはワシントンであった。それは、彼が独立を勝ちとった軍事的英雄であったからではなく、彼の行動格率が共和主義的原理に則っていたからである。ワシントンはアメリカのキンキナトゥスとして、公共の利益の追求に献身する有徳者としての生き様を示したのである。

子供の頃、ワシントンは父親が大切にしていた桜の木を切ってしまった。そのことを正直に話したところ、怒られるどころか、その正直さは千本の桜よりも価値があると誉められた―そんな逸話が残っている。ワシントンは正直さを象徴する存在となり、その誕生日にチェリーパイを食べてお祝いするという文化が生まれた。その誕生日、2月22日(現在は2月第3月曜日)は、独立記念日と並ぶ祝日として位置付けられている。

建国を成し遂げたワシントンの革命精神は、有徳と正直さの文化となって今も生き続けている。