「自分らしさ」なんて、あるのか?

哲学者・和辻哲郎が探求した「人間」の本質は、孤立した個人ではなく、「人と人との間柄」にあった。彼によれば、私たちは父として、母として、あるいは社会人として、ある「役割(ペルソナ)」を演じることで初めて人間になるのだと言う。しかしこの考え方は、「自分らしくありたい」と願う現代の私たちにとって、すんなりとは受け入れがたいものかもしれない。「役割」を生きることと、「自分らしさ」は両立しないのだろうか。一見古風な哲学者の思想を通して、現代社会の常識を問い直してみよう。

前回、「人間」とは何かを、「世の中」や「存在」という言葉から迫ってみた。すると、世間の一切合切が消えてなくなってしまうかもしれないという、虚無的にも思える人間観が見えてきた。でも、実際の和辻倫理学は、こうした虚無の方向へは進まない。むしろ私たちがいきいきと生きている「日常性」に注目し、最終的には倫理学を定義しようとするのである。「日常性」?難しい言葉で文章を書くのが専門のはずの哲学者が何を言っているのかと思われるかもしれないが、そこには次のような背景がある。

科学と個人、当たり前への疑問符

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先﨑 彰容(せんざき あきなか)

社会構想大学院大学 社会構想研究科 研究科長・教授
思想史家。博士(文学)。1975年東京都生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業、東北大学大学院日本思想史博士課程修了。日本大学危機管理学部教授を経て2025年4月より現職。『個人主義から〈自分らしさ〉へ』(東北大学出版会、2010年)、『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、2013年)、『維新と敗戦』(晶文社、2018年)、『国家の尊厳』(新潮新書、2021年)、『本居宣長』(新潮選書、2024年)、『批評回帰宣言』(ミネルヴァ書房、2024年)など著書多数。

和辻哲郎が仮想敵にしているのは、科学主義と個人主義である。私たちもよく「エビデンスが大事」というが、このような思考が科学万能主義の典型だ。今、ご近所さん同士が「天気がいいですね」と挨拶したとしよう。太陽・二人の人間・頭を下げるといった事象について、科学万能主義は、「地球に最も近い恒星であり、直径は約140 万キロメートルある太陽」のしたで、「哺乳類に属する」人間という生物が、「頭蓋骨を背骨から15度傾斜させた」と答えるのが正解になる。すべては実証的な事実だからだ。だが、こうした説明を聞いて、なんとなくヘンな気がしないだろうか。少なくとも、和辻はヘンだと考えた。科学的説明をいくら精密にしても、二人が交わした「挨拶」の意味をとらえられない。人間にとって挨拶とは何なのか。その時、太陽が輝いていることの意味とは何か。社会関係にどのような影響を与えているのか。和辻倫理学が迫ろうとしたのは、こういう問題だったのだ。

そしてもう一つの仮想敵が、西洋哲学の人間観である。西洋哲学は人間を、どうしても個人主義的にとらえてしまう。例えばデカルトの有名な「我思う、故に(ゆえに)我あり」という考え方は、自我だけが確実な最終根拠だという人間観である。でも……と和辻は考える。私たちの「日常性」を見てみると、見るという行為ひとつとっても、じっと見る・にらみつける・おどおど見るなどのように、私の行為は同時に、他人との緊張関係にさらされている。

だから和辻は次のように言うのだ。「人間」とは「人と人との間柄」を本質としているのではないか。

(※全文:1921文字 画像:あり)

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