「楽しい日本」を哲学する②

戦後80年・昭和100年という節目にあたる今年、「楽しい日本」という言葉を入り口に、時代とともに変化する日本人の生き方を探る。前回に引き続き堺屋太一の視点を手がかりに、「豊かさ」の本質を問い直し、日本人のあり方について考える。

「楽しい日本」という国家哲学

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先﨑 彰容(せんざき あきなか)

社会構想大学院大学 社会構想研究科 研究科長・教授
思想史家。博士(文学)。1975年東京都生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業、東北大学大学院日本思想史博士課程修了。日本大学危機管理学部教授を経て2025年4月より現職。『個人主義から〈自分らしさ〉へ』(東北大学出版会、2010年)、『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、2013年)、『維新と敗戦』(晶文社、2018年)、『国家の尊厳』(新潮新書、2021年)、『本居宣長』(新潮選書、2024年)、『批評回帰宣言』(ミネルヴァ書房、2024年)など著書多数。

今年は日本人にとって、「歴史」が浮上する1 年である。戦後80 年と昭和100 年の節目にあたる年だからだ。でも実際、日々の生活のなかで、過去を振り返るチャンスはそう多くはない。私たちの時代は変化の連続で、対応に追われ、きた球を打ち返すだけで精いっぱい。過去のことなど、歴史の先生にお任せしたいところである。直接、自分に関係があるとは思えない。ましてや、総理大臣の大上段に構えた国家像など、遠い世界の話にも思える。だが、「楽しい日本」という言葉に少しだけ立ち止まり、中身をのぞき込んでみると、それが日本人論であり人間論であることがわかってくる。「歴史」から人間の生き方が見えてくるのだ。本稿のタイトルを「楽しい日本」を哲学する、と題したゆえんである。

前回わかったことは、堺屋太一の『三度目の日本』を参照すると、戦後の日本社会が「豊かな日本」を目指したこと、その際、「画一化」した生き方を日本人がしてきたということだった。画一化とは、東京が政治・経済・文化の中心モデルとして君臨し、地方はその縮小再生産をして、ミニ東京をめざしたと考えればわかりやすいだろう。よく言われることだが、新幹線の駅を降りると、どの地方都市の駅前もおなじ顔つきをしている。銀行、予備校、電化製品店、そして外資系の喫茶店。地方が個性を失うことを代償に、私たちは誰もがおなじような商品を買うことで、生活難を逃れ、とにかく貧しさから抜け出してきたのだ。

確かにこれは「豊かな社会」の到来だった。この際の「豊かさ」の定義とは、当然、多くの商品を買えるような日本人が増えたというものである。難しく言うと、人間を消費する存在であると考え、生産量をあげて、どんどん人びとに買ってもらうことをもって、日本人は幸福だと考える。経済成長こそ、人間の第一の価値観だとみなす国づくりをおこなってきたわけである。

けれども、堺屋が指摘するまでもなく、これは多様な価値観の一つにすぎない。以前、ブータン国王が来日した際に、GDPではなくGNH(国民総幸福量)こそが大事だとマスコミで報じられたことがあったが、日本人は今、モノを大量消費する以外の価値観が大事だと考えるようになっている。素朴な笑顔で家族がつつましく暮らす姿に、日本人はハッとして、自分が捨ててきた何かをブータン国民は保ち続けているのではないかと直感したのだろう。ただ実際に、冷蔵庫も洗濯機もない時代に戻ることはできない。そこで最近、耳にするようになったのが、「モノ消費からコト消費へ」というキャッチ・フレーズである。高度成長期がモノを消費する時代だとすれば、現代はコトを消費する時代だという意味で、具体的には、山間地の古民家に宿泊してわざわざ不便な生活を楽しんだり、陶芸体験によって日常とはちがう時間感覚を味わうといったものだ。古民家も陶芸もたいしてお金はかからない。でも、内面に充実した気分を味わうことに金を払いたい。大型ホテルにはない、ここだけにしかない個性的建築を味わい、自分にとり一つだけの作品をつくりたい――豊かさや贅沢の定義が、まったく変わってきているのである。

ただこうしたあたらしい「豊かさ」の再定義は、まだはじまったばかりである。堺屋の『三度目の日本』によれば、日本人は「第二の日本」の国家像から、いまだに抜け出せていない。コト消費が登場する一方で、さらに加速度的に、画一化した日本社会がつくられ続けているのだ。

堺屋が具体的にあげるのが、「天国」と「流通の無言化」というキーワードである。現在の日本と日本人の特徴を、この2つの概念で明らかにできるというのである。

では、「天国」とは何か。天国とは、安心・安全・豊かさを実現した結果、日本人から夢や気概が失われた状態を指す。確かに日本人は経済的に成功し、1980 年代にはジャパン・アズ・ナンバーワンとまで言われた。食べ物はおいしいし、治安も抜群によい。ただこの居心地のよさが、日本人から高い目標を求める心や、秩序は努力せねば維持できないという本能を奪ってしまったのだ。安心・安全がまるで水のように無料で配られるものであるかのように思い込んでしまった。自分は恩恵を受ける側であり、決して秩序をつくる側だとは考えない。こうした腑抜けた日本人が、あらたなことにチャレンジすることを躊躇い、生きる力が衰弱していると堺屋は警告を発したのである。

次に「流通の無言化」とは何か。高度成長期にモノがどんどん生産・輸入されるようになると、街角に商品があふれるようになった。ところが、なかなか消費が追いつかず、モノが売れない。供給に需要が追いつかない。堺屋によれば、当時の官僚たちは、その原因を「第三次産業の生産性が低いからだ」と考え、徹底的に流通の無言化をおこなったというのである。

第三次産業とは、たとえば商店街を思い出してほしい。肉屋さんで買い物をするときに、子供を連れたお母さんは肉屋の主人と会話をしていた。子供が今日、運動会で頑張ったと聞くと、主人は「おりこうさんだね」と言って唐揚げをひとつ、おまけしてくれたかもしれない。 5 個の唐揚げを売るのに10分かかる。これが商店街の風景だった。 現在、私たちはスーパーの総菜コーナーで、5個入りのパックをレジに持っていくだけである。5個の唐揚げは2分で買えるようになった。結果、生産性は5倍あがり消費意欲が向上したことになるわけである。さらに最近では、人手不足解消の目的もあって、無人レジもコンビニなどで見かけるようになった。わたしたちは、買い物を無言でするようになっているのだ。

陶芸体験の参加者。日常と異なる体験への需要は根強い

堺屋が「楽しい日本」を掲げ、三度目の国づくりの根幹にすえたのは、以上のような日本人像に違和感があるからである。「天国」でクラゲのように漂う日本人。しかもその日本人は、街角で会話をする機会を奪われ、無言で商品を買って、無言で食べるような生活をするようになっている。日本はこういう国でよいのだろうか。むしろ日本が今後めざすべきは、街角に何気ない会話があふれ、笑顔や唐揚げのおまけという、経済合理性にはなじまない生き方こそ、大事なのではないか。人生の「価値観」の中心に置くべきでないのか――「楽しい日本」には、以上のような「哲学」が隠されているのである。(以下、次回)