日本文化の源泉・茶の湯に魅せられた人びと

近代化に奔走しながら
「古典」を求め、茶の湯に情熱を傾けた

近ごろ私は「鎖国のすすめ」を話題にしている。鎖国にもいろいろあろうが、特に言いたいのは情報の鎖国である。われわれの周囲にはどうでもよい情報があふれかえっていて、子供から老人までスマホが手放せなくなってしまった。「一度、どうでもよい情報を身の回りから遮断しませんか」という提案である。

では、どうでもよくない、生きてゆく上で必要な情報は何か。100年以上たっても輝きを失わない「古典」であろう。

日本近代を形成した明治・大正時代のリーダーたちは「古典」の造詣が深かった。ことに古典といえるような生活文化を学び、楽しんだ。その生活文化とは「茶の湯」である。

三井物産を創立し、のちに三井財閥の中枢をになった益田孝(1848―1938)は三十代から茶の湯に親しんだ。のちに彼は自ら鈍翁どんのうと号したので、ここでも益田鈍翁と呼ぶことにしたい。鈍翁は名物として名高い茶の湯の釜銘「宮嶋」を明治19年(1886)に買った。その入手の時のエピソードが『自叙益田孝翁伝』に載っている。

日本の近代化を牽引していた渋沢栄一が金沢へ経済視察に行き、その報告会が某料亭の二階で開かれた。若手財界人として鈍翁も呼ばれて行った。そこで思いがけず茶の湯批判を聞かされた。渋沢が金沢の重鎮をたずねると、まずお茶とお菓子が出てきて道具の話になる。いよいよ経済の話をしようとすると時間切れで次へ行かねばならぬ。どこも同じで、これでは金沢の経済はよくならぬ。まず茶の湯をやめるべし、という。その時、下から女中が鈍翁のところへきて、下でお客がとささやくから、階下の女将の部屋に行ってみるとなじみの道具商が、「益田さん。すばらしい名物の釜が手に入りました」と、宮嶋の釜をみせる。話をきいていると上から「益田はどこへ行った」と迎えがくる。上にあがれば茶の湯批判、下に降りれば茶の湯道具談義。こんなおかしなことはなかった、と鈍翁は回顧している。

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