多様性の奨励と差異の封じ込め 肯定的な語りが蓋をするものとは
多様性を肯定的に受け入れたり奨励したりすることが強調されながら、実は「有益」かどうかで差異が選別されて、構造的な差別・不平等の問題への視点や取り組みを封じ込めてしまう作用が伴ってはいないのか。3つの相互に関連する権力作用を見ていこう。
多様性は誰のためのものか
岩渕 功一
正確に言えば元々は英語のdiversityに対してであるが、多様性・ダイバーシティという言葉に違和感を覚えたのは、1990年代に会社を辞めてオーストラリアに移り住んでからだ。(diversityの対訳として以下では「多様性」を用いる。)多文化主義を政策として標榜する社会でアジアからの移住者というエスニック・マイノリティとして生きるなかで、その肯定的で調和的な響きがどこかしら上から目線で胡散臭いなと感じたのを覚えている。誰にとって何がどのように良いのかを深く考えさせないような力が作動しているように思えたのだ。
最初のきっかけとなったのは、多文化主義に関連する多様性の語られ方だ。それは社会に共存する複数の民族・集団による文化多様性を賞賛するが、差別解消や人権保障などの取り組みから切り離された表層的な美辞麗句である場合が少なくないだけでなく、実際には「寛容」の名の下で受け入れやすい差異が選り分けられ、新たな包摂と排除の力学を作動させていることが指摘されてきた(1)。多様性は周縁に位置付けられる「エスニック」集団の食、衣服、音楽、舞踊などの文化と結びつけられて奨励される。そうしたエスニック文化は…
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