オンライン授業がひらいた扉 大学教育はどこへ向かうのか?

社会が大きく変容するなかで、高等教育のあり方が問われている。デジタル化で時間・空間的制約が減る今、学びの場はどうあるべきか。本連載では、文化人類学者として大学教育に携わる松村圭一郎氏に、あらたな時代に向けた未来の大学への構想を提言いただく。

大学にオンライン授業が導入されて2年あまりが過ぎた。この春に3年生になった大学生は、入学当初からずっとオンライン授業を経験してきた学生たちだ。すでにほとんどの大学で少人数の演習や講義科目を中心に対面授業が再開されている。だがオンライン授業によって学生や教員が目にした光景が消えることはない。たとえすべての授業が対面に戻ったとしても、もはや後戻りできない場所に立たされている。そういう感覚がある。この連載では、オンライン授業が突きつけた既存の大学の限界や可能性をふまえたうえで、これからの高等教育のあるべき姿を考えてみようと思う。

「やっぱり対面がいい」

松村 圭一郎

松村 圭一郎

岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。
所有と分配、海外出稼ぎ、市場と国家の関係などについて研究。著書に『所有と分配の人類学』(世界思想社、第30回澁澤賞、第37回発展途上国研究奨励賞受賞)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院)、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、第72回毎日出版文化賞特別賞)、『くらしのアナキズム』(ミシマ社)、『これからの大学』(春秋社)、『はみだしの人類学』(NHK出版)など、共編著に『文化人類学の思考法』(世界思想社)、『働くことの人類学』(黒鳥社)がある。

4月からはじまった対面での講義は、教室の感染対策用の人数をこえる履修登録があったこともあり、急遽、オンラインと対面とのハイブリッドに設定した。朝1限の科目で、しかも初日は雨。だが意外なことに、教室には100人近くの学生が座り、授業の開始を待っていた。オンラインで参加したのは30人ほど。「やっぱり対面のほうがいいの?」と聞くと、一様にマスク姿の顔がうなずく。他の教員の授業科目でも、対面科目で履修者が増える現象が起きているようだった。せっかく大学に入ったのだからキャンパスに通いたい。友達と会いたい。授業がはじまるまで楽しそうにおしゃべりする学生たちの姿にはそんな思いがにじんでいた。

ただ、ハイブリッド授業にすると決める前に履修者からはこんなメールが届いていた。春休みに手術をして実家で療養中のため、オンラインで授業が受けられないかという相談だった。授業がはじまってからも、学生からは「寝坊して半分見逃したので録画を見せてほしい」、「感染して自宅療養で公欠扱いになったので欠席した回の録画を見たい」といったメールが何通も届いた。ハイブリッド授業とはいえ、対面が基本なので、リアルタイムの配信のみで録画は公開しないつもりだった。

オンラインで配信する授業は録画できる。これまではアップされた講義動画を好きな時間に、好きな場所で見ていた学生たちに、このオンライン授業で知ってしまった便利さを忘れろといっても無理がある。ただ、対面で授業に参加していても居眠りをしたら、話を聞き逃してしまう。公平性の観点から録画は公開しませんと学生に伝えても、もやもやとした思いが残った。

2020年春にオンライン授業をはじめてすぐに気づかされたのも、これまで通りのやり方でいいのかということだった。入学試験に合格した限られた学生たちを対象に、その大学の教員だけが授業をする。オンライン授業なら、どこにいても、だれであっても受講可能だ。講義の録画動画をウェブにアップすれば、授業が終わったあとでも、興味をもつ人に視聴してもらえる。自分はなぜ自分の大学の学生だけにオンラインで授業をしているのか。授業をやりながらも、そんな疑念がぬぐえなかった。

揺らぐ「大学」という仕組み

このことは当然、大学生や受験生も感じたはずだ。全国の大学でオンライン授業が行われている。それなのに、なぜ自分が受かった大学の授業しか受講できないのか。大学に関係なく、興味ある科目や好きな先生の授業を自由にとれたらいいのに。おそらく、そう思った人は少なくなかったはずだ。実際、友人の大学教員に聞いた話では、プログラミングに興味のある浪人生が、日本の大学への受験をやめて、ロンドン大学で開講されている最先端のプログラミングの授業をオンラインで受講することにしたそうだ。当然の帰結だ。

懸命に受験勉強して、できるだけ偏差値の高い大学に入学する。そこで何が学べるかよりも、どこの大学を卒業したかが社会的にも重要な意味をもつ。10代後半の同じ年代の若い人たちに大学が試験を課し、成績のいい順番にとっていく。こうした既存の大学があたりまえの前提にしてきた仕組み自体が、オンライン授業の登場によって揺るがされている。

共通テストや大学入試で不正や出題ミスが起きるたびに、大きなニュースになる。どうやって不正やミスを防ぐか、文科省や各大学もその対策に追われている。だが、もはや問題は入試のやり方にあるのではない。大学入試という制度そのものの存在意義が問われている。

知識と体験が得られる場を
社会の中にどうつくるか?

大学は何のためにあるのか。本来は、自分の興味をもつ学問を主体的に学ぶ場のはずだ。それなら、ある大学に所属していること自体にそれほど意味はない。日本だけでなく、世界中で開講されているオンライン授業を受けて学ぶ。それは、すでに現実化している。Googleは大学に相当する高等教育のコースを世界中の人に向けてオンラインで安価に提供している。各国の有名大学も、オンライン授業の一部を無料で公開しはじめた。日本でも、無料で学べるオンライン講座のサービスが人気を集めている。高い学費を払って既存の大学に入学する意味は、急速に薄れつつある。

もちろん最初に紹介したように、対面で人が同じ場所に集まって学ぶことへのニーズはたしかにある。大学のキャンパスに通い、友達をつくり、サークルやバイトなど大学生活を楽しむ。大学が提供していると思ってきた「授業」とは無関係の時間にこそ大学にいく意味はあったのかもしれない。だが「知識」としての大学の授業がオンラインで場所を選ばず学べる時代に、さまざまな「体験」を提供する場が大学である必要もない。社会のなかに、どう「知識」としての学びと「体験」としての学びの場を確保していくのか。これまでの大学のあり方が根底から問いなおされている。

徐々に対面の授業が再開され「その場」を共有する重要性を多くの人が実感する一方、オンラインでいつでもどこでも学べることが明らかになったいま、大学はそのあり方を問われている(イメージ画像)

徐々に対面の授業が再開され「その場」を共有する重要性を多くの人が実感する一方、オンラインでいつでもどこでも学べることが明らかになったいま、大学はそのあり方を問われている(イメージ画像)

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