和辻哲郎の自然主義批判 「〇〇らしさ」は虚無主義を防ぐ

和辻哲郎の倫理学は、人間を「人と人との間柄」として定義し、人が他者から与えられた役割(ペルソナ)を生きることで人間になると説く。今日、この「〇〇らしさ」は自由を抑圧するものとして批判されがちである。しかし、和辻があえてこの人間観を示した背景には、明治末期に文壇を席巻した自然主義文学への危機感があった。自然主義は「ありのまま、赤裸々」を掲げ、人間の醜悪な部分の暴露を本質とした。和辻は、この規制を越えた暴露趣味が、最終的に「徹底的な虚無主義の出現」と「物質的享楽への権利の主張」をもたらすと鋭く批判した。この批判は、現代の過激なコンテンツ文化にも通じる本質的な問いを含んでいる。

前回確認したことは、和辻哲郎の人間論・倫理学が、今日の私たちの社会に大いに参考になるということだった。和辻は「人間」を「人と人との間柄」であると言った。人は個人で生きているわけではない。必ず関係性のなかで自分という輪郭をつくりあげていく。 だとすると、当然、他人から与えられた役割を生きることになる。和辻用語で言えば「ペルソナ」である。父親・教師・男性などなど、「〇〇らしさ」を生きることで、人は「人間」になるというわけだ。 前回も言ったことだけど、こうした和辻倫理学は、恐らく、今日、とても評判が悪いだろう。「〇〇らしさ」を窮屈だと感じる気分が支配的だからであり、自分は自分という生き方こそ、自由だというわけである。こうした前提に立つ限り、和辻の出番はなさそうである。だがそこは和辻先生。この程度の批判は先刻承知だったのだ。ではなぜ、和辻はあえてこうした人間観を示したのだろうか。同時代の思想文学状況を押さえておく必要がある。

(※全文:1917文字 画像:あり)

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