【リーダーの構想】「学歴」から「学習歴」へ オープンバッジが溶かす大学と企業の境界

AI技術の急速な発達が、人に求められる能力を根底から揺さぶっている。教育機関のあり方も、企業の育成・採用戦略も、抜本的な見直しを迫られるなか、個人の学びの軌跡をデジタルで可視化する「オープンバッジ」が、従来の評価システムを塗り替える基盤として存在感を増している。その国内普及を担う一般財団法人オープンバッジ・ネットワークの岸田徹理事長に、学習歴社会の展望を聞いた。

一般財団法人オープンバッジ・ネットワーク 代表理事 岸田 徹 氏

AI時代に問われる証明の信頼性

リスキリング(学び直し)の時代といわれる。人生は100年へと長期化する一方、社会の変化は加速し、20歳前後の一時期にどの教育機関で学んだかだけでは、生涯を通じて対応しきれない。評価の軸は、いま「学歴」から「学習歴」へと移りつつある。

その受け皿となるオープンバッジの広がりは著しい。岸田氏によれば、世界ではこの10年ほどで急速に普及し、すでに約3億2000万個が発行されている。国内でも2026年9月末時点で約301万個に達した。もっとも、イギリスやドイツが国を挙げて活用を徹底しているのに対し、日本はなお「推奨」の段階にある。加えてAIの普及は、データそのものの信頼性を一段と鋭く問い始めた。自己申告に頼る従来の履歴書では、もはや学びの中身を保証できない。

岸田氏がオープンバッジに出会ったのは、財団設立にさかのぼる7年前。初めてこの仕組みを知った瞬間の手応えを、こう振り返る。「初めてオープンバッジに出会ったとき、『これだ』と思いました。『これしかない』と。決め手は二つあります。一つは『オープン』、つまり世界共通の言語であること。もう一つは偽造できないことです。従来は本人の自己申告に頼っていましたが、ブロックチェーン(改ざんを困難にする分散型の記録技術)などで裏づければ、世界で通用し、社会的にも信頼できる証明になる。技術的に難しいからこそ、気づいた人だけが先に動いたのです」と語る。

「数が価値を生む」課題は要請への応答

オープンバッジは、知識・スキル・経験を証明する国際標準規格のデジタルクレデンシャル(デジタル認証)である。同財団のバッジは国際標準化団体1EdTechの認定を受け、細分化された学習成果を示すマイクロクレデンシャルにも対応する。一度きりの入学試験で合否が決まる仕組みとは異なり、小学生からシニアまで、生涯にわたって学びの記録をつないでいける点に本質的な価値がある。

普及は、あるとき臨界点を越えた。長らく認知拡大に注力してきた財団だが、市場の局面はこの春を境に一変したという。「オープンバッジは、数が価値を生む仕組みです。数が少ないうちは価値がなく、最初は導入してもらうこと自体が大変でした。それが今年の春先から、問い合わせが爆発的に増えている。展示会でも応じきれないほどです。国立大学の導入率も5割を超えました。もう『どうやって広げようか』ではなく、『社会からの要請にどう応えようか』という局面に入っています」と話す。

追い風は行政からも吹く。政府は2年ほど前からデジタル関連施策でオープンバッジの活用を推奨し、文部科学省など各省庁も足並みをそろえる。トヨタ自動車をはじめ導入企業も広がり、韓国など海外でも同様の動きが進む。数が信頼を呼び、信頼がさらに数を呼ぶ好循環に入っている。

薄れゆく「学歴」の意味と変化する採用

普及の先で起きているのは、教育と労働の境界そのものの組み替えである。岸田氏は、大学と企業の関係が根本から変わりつつあると見る。「大学間が流動化し、大学と企業の間も平準化していく。学ぶことと働くことが一体化していくのです。『この大学に所属する学生です』という言葉の意味は、どんどん薄れていく。だからこそ、従来のやり方をやめて、まったく新しい形をつくっていく必要があります」と語る。単位互換やマイクロクレデンシャルの国際的な広がりが、その流動化を後押しする。

変化は採用の現場をも塗り替える。岸田氏は、応募者の情報が「ヒトゲノム」のように精緻化していると表現する。「いまは応募者一人ひとりについて、ヒトゲノムのように詳細なデータが提出される時代です。採用エージェントが、履歴書だけでは分からない経歴の裏側まで提供する。企業はそれを見て採用する。『どの大学にいたか』ではなく、同じ経済学部でもその中で何を学んだかまで分かる。学歴だけでは、もう信頼できなくなってきているのです」と指摘する。学歴という記号に甘え、成果を示せない大学は選ばれなくなる。世界ランキングで上位に届かない日本の大学にとって、アジアの中でものんびりしてはいられない。

では、この転換を大学はどう生き抜くのか。岸田氏は二つの役割を挙げる。一つは研究機関として、文系・理系を問わず新しい価値を生み出すこと。もう一つは、社会と結びつくという大学本来の役割に立ち戻ることだ。だが、これは理念にとどまらない。すでに具体的な打ち手が動き始めている。

第一に、自校の学生を囲い込む発想を手放すことだ。他大学や通信制で取得した学びをマイクロクレデンシャルとして認め合い、単位互換を広げていく。「うちの学生がよそで学ぶ」ことも、「よその学びを認める」ことも、これからは当たり前になる。学部の廃止や統廃合が進むなかで、質の高い教育こそが「選ばれる理由」になるからだ。マイクロクレデンシャルの国際的な相互承認も動き出しており、アジアの競争のなかで日本の大学に立ち遅れる余裕はない。

第二に、授業のあり方そのものを組み替えることだ。岸田氏が説くのは、知識偏重からの決別である。資格取得もAI人材育成も、これまでは知識を教えることに終始してきた。だが、これからの社会で本当に問われるのは実行力だ。「スキルは、個人が自分で反復して身につけるしかない」。だからこそ、スキル習得の類は思い切って宿題に回し、授業の中心は基礎の習得と、学んだことを実際に試すことに置く。決まった時間に一斉に集めて教えるという産業社会型の発想から、いつでもどこでも学び、実社会で実践してフィードバックを得る形へと、教育の設計を反転させる必要がある。

その萌芽は、すでに学生の側に現れている。データ分析やコンサルティングを手がけ、自ら会社を経営しながら大学に通う二十代—ビジネスコンテストでは、そうした学生に大人が及ばないことさえあるという。学びと実践を往復する彼らの姿は、これからの学びのかたちを先取りしている。学ぶことと働くことが越境してつながる時代に、教育機関は自らの存在意義を問い直すことになる。

「一人ひとりを見る」新たな人材戦略へ

企業にとって、オープンバッジはもはや人事ツールを超えた人材戦略の基盤である。終身雇用からジョブ型へと移行し、人的資本経営の可視化を急ぐ潮流と、バッジの普及は重なり合う。IBMをはじめグローバル企業が全社的に導入し、誰がどのスキルを持つかを把握し始めている。岸田氏が繰り返し強調するのは、知識偏重からの脱却だ。資格社会もAI人材育成も、これまでは知識を教えることに終始してきた。だが、これからの社会で問われるのは実行力だという。

まだ導入に踏み切れない企業は、何から始めればよいのか。人事・人材育成の担当者に向けて、岸田氏はこう呼びかける。「多面的な価値がありますから、まずはどれか一つから始めていただいて構いません。社内のDXを進めるために、社員が学ぶ動機づけとして導入する企業も多い。大切なのは知識よりも実行力です。最終的には一人ひとりのスキルを見て、自分で決めていける人材を、経営戦略に沿って育てていく。そのための基盤がオープンバッジなのです」と力を込める。

標準規格は、一社だけでは成り立たない。複数の団体が役割を分かち合い、協力して初めて、エコシステムとして社会に機能する。株式会社ではなく財団という形を選んだ理由を、岸田氏はそう説明する。同質で優秀な人材を一括採用し、一律に育てる時代は、静かに終わりを迎えつつある。経営戦略に沿って個人のスキルを可視化し、一人ひとりに個別の育成計画を描くこと。その具体的な武器がオープンバッジだ。最後に岸田氏は、大学と企業の境界が溶け、学ぶことと働くことが一体化する社会像を描きながら、「まずはそこから、ぜひ活用していただきたい」と締めくくった。