近世の徳島県教育史 女子教育も重視した藩校建設計画

四国第二の高山・剣山を擁する徳島は、県土の約8割を山地が占め、吉野川が県を南北に分ける。その近世史は、豊臣秀吉の四国征伐を経て、蜂須賀家政が新領主として阿波に入った頃に始まった。実利を重んじた藩校や庶民に影響を与えた石門心学の成り立ちなど、近世の教育を振り返る。

学問の大切さを説いた藩校計画 30年の時を経て学問所に結実

徳島藩の最初の藩校である学問所が寺島巽浜(徳島市中洲町)に設置されたのは、1791(寛政3)年のことだった。

四国では高松藩の講堂館(1702年)、宇和島藩の明倫堂(1748年)、高知藩の教授館(1760年)などに遅れて7番目、全国では97番目と決して早い方ではなかったが、1795(寛政7)年に藩医・小原春造(しゅんぞう)宅に医師学問所が設置されるなど、実利的で独特の発展を遂げた特徴がある。1798(寛政10)年には洲本水筒町(洲本市)に…

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