近世の長崎県教育史 長崎大学に連なる西洋医学の伝統

本土の最西端に位置し、はるか昔から航海によって大陸の先進文化がもたらされてきた長崎。鎖国時代にも、海外に開かれた唯一の窓口として、日本の近代化に大きな貢献を果たした。日本初のキリスト教の教育機関や近代医学の導入など、中世から近世における長崎の教育を振り返る。

欧州流のセミナリヨとコレジヨ
日本初のキリスト教の教育機関

日本へのキリスト教伝来は1549(天文18)年、イエズス会に属するフランシスコ・ザビエルが薩摩(鹿児島県)に上陸したことに始まる。その後も相次いでキリスト教の宣教師たちが来日し、南蛮文化と称されるキリスト教文化が日本各地に広まっていった。そうした流れのなか、巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが1579(天正7)年、島原半島の口之津港に到着し、ヨーロッパの学校制度を導入したセミナリヨ(中等教育機関)とコレジヨ(大学)の設立を決定した。

この計画のもと、日本で初めてキリスト教の教育機関となる有馬のセミナリヨが1580(天正8年)に設置された。以来、この地域では移転を繰り返しながら断続的にキリスト教の教育機関が設置され、当時の日本におけるキリスト教の指導者育成の重要拠点となった。セミナリヨの教育では語学と文学が重視された。外国語としてラテン語を採り入れると同時に日本語と日本文学も重視し、「太平記」や「平家物語」などの古典文学が教えられた。また、ラテン語のグレゴリオ聖歌や楽器など、…

(※全文:2211文字 画像:あり)

全文を読むには有料プランへのご登録が必要です。