明治維新への途を切り拓いた名君 薩摩藩第11代当主・島津斉彬

社会構想大学院大学 社会構想研究科では、社会のグランドデザインを描き、実装できる人材を養成している。本連載では社会構想家の実践から、「グランドデザイン」について解説。本稿では、わずか7年の在位で近代化への布石を築いた薩摩藩主・島津斉彬を取り上げる。

日本国という枠を超えて
世界への視野を広げる

吉國 浩二

吉國 浩二

社会構想大学院大学 学長
1975年東京大学経済学部経済学科卒業。1975年日本放送協会入局。横浜放送局長、経営委員会事務局長、理事を歴任し、2012年4月~2016年2月専務理事。役員としてコンプライアンス、人事、総務、関連事業、コンテンツの2次展開・海外展開、広報等を担当し、2016年2月退任。2017年より事業構想大学院大学副学長・学校法人先端教育機構理事を経て、2019年度より社会情報大学院大学(現 社会構想大学院大学)学長。

明治維新。それは単なる政権の交代ではなく幕藩体制から中央集権国家体制への移行、開国と産業革命による資本主義化の推進という政治経済社会すべての仕組みを根本から塗り替える我が国で最大の革命であった。

連載最後となる本稿では、当時の日本では傑出した先見性と国際感覚をもって一連の大改革の布石を築いた薩摩藩主・島津斉彬を取り上げる。

斉彬は1809年、江戸の薩摩藩邸で生まれた。早くから藩主の跡取りとなったものの父親との折り合いが悪かったことから中々家督を継げず、40年以上を江戸で過ごした。しかし様々な人材や情報が集まる江戸での生活が、斉彬の知見を大いに高めることになった。

とりわけ西洋文化については幼少のころから強い関心を抱いていた。当時は鎖国下で外国人との接触は難しい状況であったが、薩摩藩は支配下にあった琉球王国を通じて中国との貿易を継続していた。斉彬は江戸での見聞に加え、琉球に集まる洋書や海外からの品物に触れることや貿易に関わる内外の商人などとの交流を通じて最新の情報を収集していたのである。

このような形でグローバルな感覚を育てていた斉彬の視点は、日本国という枠を超えて東アジアまで広がっていた。そこから見えてきたのは、政治経済の近代化が遅れたアジアの国が次々と欧米列強の支配下に落ちていく厳しい現実である。

一方、日本では開国によって多くの物資が輸出に回り品不足が深刻化するなどして物価が高騰、加えて入国した一部の外国人たちの無礼なふるまいなどへの批判が高まり過激な攘夷論が台頭していた。斉彬はこうした動きを「無謀な大和魂の議論」と退け、列強に対抗するためにも政治、経済の改革で国力を強化することが先決だとして改革に乗り出した。

海外の技術を積極的に導入し、
産業の近代化を推進

当時の日本は徳川が天下統一を遂げたと言え、実態は260余りある全国の藩がそれぞれ支配地を統治し、もっとも強大な徳川がまとめ役になるという分権国家に過ぎなかった。従って幕府の政務には徳川宗家直属の家臣しか関与できず、外様大名はもとより御三家や親藩も蚊帳の外に置かれていた。各藩が一つにまとまらない状況では列強が攻めてきても対抗できない。斉彬はこうした危機感から中央集権的な国家への転換を模索した。

そこで取り組んだのが公武合体、皇室と幕府と合体させ挙国一致を目指すことである。この考えは当時の幕府の賛同を得られず、斉彬も早くに亡くなったため実現しなかったが、その後弟の久光らが引き継ぎ様々な葛藤を経て、最終的には従来の権威にしがみつく徳川の排除、そして廃藩置県による中央集権の確立につながるのである。

斉彬は同時に軍事力、経済力の強化を図るため、海外の技術を積極的に導入して産業の近代化を進めた。藩内に集成館と名付けられた工場群を建設し、軍艦など洋式船の建造と鉄製の大砲の鋳造、さらに大量の鉄を算出できる反射炉の建設に乗り出した。

しかし斉彬がこの集成館で目指したのは、軍事力の強化だけではない。他の藩が軍備の増強に血眼になっている中で、薩摩では「国を豊かにすれば人はまとまる。人の和は城壁にまさる」として民生用の分野の産業育成にも取り組んだ。

集成館の事業は斉彬の急な死去で一時中断したものの、すぐ再開され明治に入っても続けられ、ここで産み出された産業は造船、鉄鋼、機械製造、紡績、写真、出版、農耕具、医薬品など多肢にわたった。外国と対等に貿易できるようにするため、薩摩切子や薩摩焼など輸出品の開発にも取り組んだ。

そしてこの工場で技術を学んだ人たちが各地で産業の育成に取り組んだことから、産業革命による近代化の動きが日本全体に広がっていったのである。

教育改革にも力を注ぎ、
薩摩から多くの人材を輩出

人材育成のため、教育改革も推進した。当時薩摩には藩校である「造士館」でのエリート教育と地域に根差した集団教育である「郷中教育」という制度があったが、斉彬の時代にはどちらも本来の目的からかけ離れた状況になっていた。まず「造士館」では入学できるのは上級武士の嫡男に限られ、さらに学習の内容は中国の古典を読みとくことと作文能力の向上に終始し、浮世離れしたものであった。

これに対し斉彬は、「教育は日本が直面する課題を解決できる度量を持った人物の育成を目指すものだ」として改革に乗り出した。まず造士館の入学資格を下級武士や嫡男以外にも拡大、奨学金制度を新設した。学習への意欲を高めるため、藩士の登用にあたって学業の成績を重視するようにした。また教育の内容に洋学などを取り入れ、実践に役立つものに改革した。視野を広げるために優れた指導者のいる地域に国内留学をさせる制度も設立した。

一方、郷中教育は、郷という地域の子供たちが集まってお互いに教えあうという自主性を尊重した独特の教育方式であったが、文武両道を目指した当初の趣旨が次第に武の方に傾斜して喧嘩の腕を競うような風潮も出ていた。

斉彬はまずすべての郷中に通達してこうした風潮を改めさせるとともに、教える内容に筆算を加えるなど実務的な教科も盛り込み、倫理観や判断力に優れた人物を育てる教育へと変革した。こうした一連の改革で、薩摩から明治維新の近代化を推進した多くの人材が輩出されることになった。

斉彬の大胆な発想や先見性は、
現代にも多くの示唆

このように島津斉彬の軌跡を追ってみると、斉彬は藩主を務めたわずか7年の間に、この後日本が成し遂げる近代化に向けた施策のほとんどの分野で改革の布石を築いていたことがわかる。

藩が鼎立する分権体制に疑問を抱く人が誰もいない中で、国を一つにまとめるという大胆な発想、そして「西洋も人なり。薩摩も人なり」と言い切って外国の技術を臆することなく取り入れ国力の強化を図った冷静な判断力は、江戸の生活によって培った多くの人たちとの交流や、琉球貿易などに関連して得たグローバルな知識によって育まれてきたものと考えられる。

私たちは社会構想に取り組む人材に、多様な主張を受け入れる寛容力と固定観念を打破した先見性を持つよう求めて教育に取り組んでいる。また斉彬が目指した学習者の自主性の重視、実践に役立つ教育という考えは現在の教育の目指すものとも共通するところは多い。時代は大きく変わったが、斉彬に代表される明治維新の動きは私たちにも多くの示唆を与えてくれると思っている。