昌平坂学問所と寺小屋に見る、武家と庶民の教育事情
18世紀までに人口が100万人を超える巨大都市となった江戸。本稿では、武家の最高学府だった昌平坂学問所と、庶民教育を担った寺小屋にフォーカスを絞り、その歴史や教育内容を解説する。
武家の最高学府、昌平坂学問所
五代将軍・徳川綱吉は儒学(朱子学)の振興を図るため、1690(元禄3)年に湯島に聖堂(孔子廟)を創建し、上野忍岡の林家私邸にあった聖堂と私塾(徳川家康のブレーンであった朱子学者の林羅山が創設)を移した。これが「湯島聖堂」の始まりである。
私塾は代々林家が引き継ぎ、半官半私の教育機関として運営が続けられていたが、松平定信の寛政の改革(1787~1793年)によって幕府直轄学校「昌平坂学問所(昌平黌)」として刷新された。松平定信は儒教の新規学説(古学や折衷学派など)の流行に危機感を抱き、幕府の指導力を取り戻すために朱子学を正学として復興する学問統制(異学の禁)を行い、その正統な教育機関として昌平坂学問所を位置づけた。
昌平坂学問所では庶民の入学は禁じられ、主に幕府の…
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