近世〜近代の山口県教育史 松下村塾から多くの志士を輩出

南側を瀬戸内海、西側と北側を日本海と三方を海に囲まれた山口県。古くは大陸文化の窓口として栄え、幕末には倒幕運動の中心となり、明治維新の立役者となった。萩藩に芽生えた学問への探究心から藩校明倫館への流れ、さらに西洋医学の広がりと松下村塾の功績を振り返る。

儒学者・山田原欽の貢献
萩藩の藩校明倫館の源流を生む

松下村塾で明治維新を支えた多くの若者に影響を与えた吉田松蔭。

松下村塾で明治維新を支えた多くの若者に影響を与えた吉田松蔭。

出典:Wikipedia(不明 - 山口県文書館, パブリック・ドメイン, Wikipediaによる)

萩藩(長州藩)の藩校明倫館が創建されたのは1719(享保4)年、5代藩主・毛利吉元の時代である。初代祭酒(学頭)には朱子学者の小倉尚斎(しょうさい)が任命され、明倫館の基礎を築いた。だが、明倫館以前の萩藩における儒学興隆の基礎をつくった人物として忘れてはならないのが、3代藩主の毛利吉就(よしなり)に仕えた儒学者・山田原欽(げんきん)である。幼少の頃に原欽に学んだ尚斎は、1700(元禄13)年に著した「山田復軒先生行状」のなかで、「萩藩の人々は競って原欽先生を師と仰ぎ、学問が大いに発展した」と…

(※全文:2466文字 画像:あり)

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