愛知県の教育史 尾張・三河で特色の分かれる藩校、学制発布後は高い就学率

尾張国と三河国が合併して成立した愛知県。異なる歴史を持つ両国においては、藩校の性格にも違いが見られた。だが、庶民文化が向上して新しい学問が発達すると、いずれの藩校も刷新を迫られた。明治維新後は、学制による小学校以前の「義校」が高い就学率に大きく寄与した。

藩政改革を目指して生まれた、教化機関としての藩校・明倫堂

尾張藩校・明倫堂の初代総裁を務めた細井平洲。儒学者・教育者として全国に名を知られていた

尾張藩校・明倫堂の初代総裁を務めた細井平洲。儒学者・教育者として全国に名を知られていた

提供:東海市立平洲記念館

尾張では1783年(天明3年)、城南の元御国方役所の跡に藩校明倫堂が創設された。藩の歴史や領域に関する記録を編纂する継述館も設立され、ともに総裁には折衷学者の細井平洲が任命された。尾張国知多郡平島村(現東海市)に農家の二男として生まれた平洲は、幼年時代から学問に励み、17歳で名古屋藩家老竹腰氏の家臣であった中西淡淵に師事。翌年師の勧めで長崎へ行き3年間にわたって中国語を学んだ。24歳で江戸へ出て、私塾「嚶鳴館」を開いて多くの人材を育てると共に…

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