経営の本丸になる「人的資本」 経営者と人事に必要な知識・スキルとは?

モノからコトへと言われるように、産業構造が変化するなか、人材をコストではなく価値創造の資本として捉える『人的資本経営』に注目が集まる。「人への投資」が謳われるなかで、経営者や人事担当者が身につけるべき知識・スキルとはどのようなものだろうか。

高まる人的資本開示への要求
「人的資本経営」の考え方

岩本 隆

岩本 隆

山形大学学術研究院 産学連携教授
東京大学工学部金属工学科卒業。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院工学・応用科学研究科材料学・材料工学専攻Ph.D.。日本モトローラ、ノキア・ジャパン等を経て、2012年6月より2022年3月まで慶應義塾大学大学院経営管理研究科(KBS)特任教授。2018年9月より現職。外資系グローバル企業での最先端技術の研究開発や研究開発組織のマネジメント経験を活かし、技術系企業に対する「技術」と「戦略」とを融合させた経営コンサルティングや、技術・戦略・政策の融合による産業プロデュースなど、戦略コンサルティング業界における新領域を開拓。KBSでは「産業プロデュース論」を専門領域として、新産業創出に関わる研究を実施。

昨今、注目を集める『人的資本経営』。岸田政権が打ち出す『人への投資』と相まってバズワード化しているきらいがあるが、岩本氏は「実は10年以上前から取り組まれてきたこと」と解説する。

欧米では2008年のリーマンショックによって実体を伴わない経済への批判が高まり、これ以降、金融資本主義から人材資本主義の流れが生まれた。そのなかでESG(環境・社会・ガバナンス)に代表されるような『非財務指標』も重要だという認識が投資家に広がった。その後、2011年に国際標準化機構(ISO)で人材マネジメントの専門委員会(TC:Technical Committee)であるTC 260が創設。人材マネジメントの計測方法について、現時点で27の国際規格文書が出されている。

一方、量産型の製造業から、ソフトウェアやデータを活用したビジネスへと産業構造が変化したことで、無形資産の重要性が年々高まっている。このなかでも、人的資本は企業の成長性を見るのに重要な要素とされ、投資家からは既存の財務諸表に加え、人的資本も含めた無形資産の情報開示を求める声が高まっている。

こうしたなか2018年に公表されたのが、人的資本経営のガイドラインとなるISO 30414だ。これは人材マネジメントの11領域において56のメトリック(測定基準)を定めたもの。さらに米国では現在、人的資本の開示義務化に向けたメトリックについての法案が審議されている。

表 人的資本に関する11の領域と56のメトリック

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「日本でもこの夏、人的資本の情報開示に向けたガイドラインが出る予定です。すべての上場企業が国の指定したメトリックで情報を開示しなければならなくなるため企業は対応を迫られており、これが今、人的資本経営が注目されている背景です」

そもそも『人的資本経営』とは、無形資産の中核をなす人的資本をROI(Return On Investment:投資利益率)で捉える考え方。

「人的資本の11領域に対し、どう投資しどれくらいのリターンを出していくか。ファイナンスと同じように、人材の領域でもROIで経営判断をしていく。それが人的資本経営の基本的な考え方です。人的資本への取り組みを数値で開示することで、投資家に自社の成長性や持続可能性を示していくものです」

転換期にある日本型人事制度
欧米との差はどこにあるか

人的資本経営を進めていくうえで必要なデータは、従業員数やそのダイバーシティ、後継者計画といった項目のほか、採用や人材育成にかける時間・費用、異動や離職などの際に要するコスト、また従業員の生産性やエンゲージメント、ウェルビーイングなど企業カルチャーを示すような領域も含まれる。

「多くの欧米企業では、従業員の生産性や1人あたりのコストの数値化が徹底されており、すぐに把握・分析することができます。対して、日本企業は従業員の生産性や人材育成等にかかるコストを数値で把握するという意識が低いのが現状です」

例えば採用コストであれば、採用担当者の雇用コストや面接にかけた時間などをトータルで把握していない、従業員1人あたりのコストにしても、どの業務にどのくらい時間を使い、どれだけ成果を上げたかを管理していない、といったことが挙げられる。人的資本のROIに関する意識が希薄で数値化されてこなかったため、人的資本経営をしようにも基本となるデータを取ることに苦労している状況だ。

続けて岩本氏は「ROIでロジカルに考えた場合、日本の人材マネジメントにはおかしな部分がたくさんあります。その最たるものは年功序列という日本の雇用慣行であると思います」とも指摘する。

年功序列では年齢という能力とは必ずしも相関しない基準で給与が決まり、高いパフォーマンスを上げても給与には反映されづらく意欲を失う原因にもなる。また、能力があり豊富な経験をもっていても、定年という年齢の区切りで職場を離れることになってしまう。ここが、最もグローバルスタンダードから離れた部分だ。

「個人が活躍すればそれに応じた報酬が得られるという仕組みになれば、一人ひとりが生産性や自分が最もパフォーマンスの出る働き方を意識するでしょうし、人事や経営は大きく変わる気がします」

日本型雇用の対極として語られることの多い欧米式のジョブ型雇用には、“成果主義”という冷たい印象がつきまとう。しかし、欧米企業は成果主義であっても個人主義ではない。近年では特にチームワークを重視する企業が増え、チームとしてのパフォーマンスを評価し、これを高めるような人材マネジメントの仕組みが構築されているという。

「個人主義という意味での成果主義ではなく、個人のパフォーマンスはもちろん、チーム、会社全体のパフォーマンスを高める。“One for all, all for one”の考え方が、最近の欧米企業のジョブ型雇用の姿です」

経営者・人事担当に求められる
発想の転換

『人的資本経営』はこれまでコストと考えられてきた人事を経営と戦略的に結びつけ、自社の人的資本をどう生かして価値を生み出していくのかという発想が求められる。経営者、人事担当者双方にとって、これまでとは異なった目線で組織を見、行動につなげていく必要がある。

そのためには、年功序列も含め、日本でこれまで当たり前とされてきた人事制度自体を大きく変革することが避けられない。変革を進めるなかでは当然、歪みや軋轢が生じるため、一足飛びに実行することは難しいだろう。「変革の過程で損をしてしまう人をどう処遇するかが一つの鍵となります。ここでネガティブな感情が生まれてしまえば、それが障壁となり、改革の足を引っ張ることになるでしょう」

欧米に比して人的資本経営の実践が遅れているように思われる日本企業だが、ソニーやリクルートなど、先進的な企業も存在する。

「オーナー企業の多い食品系メーカー、常にイノベーションを必要とする材料系のメーカーなどは、先行して人的資本経営に取り組んでいる印象があります。また、ビジネスモデルの転換を迫られている金融系や、もともとデータの扱いに長けた情報通信系の企業も熱心に取り組んでいるように感じます」

広がるHRテクノロジーの活用
経営に求められる視点とは

人的資本経営に欠かせないのが、データを活用した人材マネジメントや、組織改革を実現する『HRテクノロジー』だ。日本でも、この分野の市場は急成長しており、ベンダーの数も500を超え、スタートアップも多く現れているという。

ただ、特に大企業では従来型のオンプレミスの人材情報システムが縦割りで入っており、人材採用、育成、給与計算、労務管理とすべてベンダーが異なるケースも珍しくない。人材マネジメントは、前述の11領域を掛け合わせてデータを分析・活用しなければ意味がないが、縦割りになっているデータに横串を通すハードルは高く、データドリブンな人的資本経営が進まない原因の一つとなっている。

さらに、人事関連のデータが蓄積されていたとしても、経営に活用することを意図していなかったというケースも多く、そのままでは分析に使用することができないといった問題もある。

一方で、国などのIT導入補助金を活用できる中小企業においては、HRテクノロジーの登場は人的資本経営に取り組む大きなエンジンとなる可能性がある。「人手不足が深刻な中小企業では、人事担当者を新たに雇用するより、ツールを導入した方が安くて即効性があります。また、もともと人事システムをもっていない中小企業にとっては、導入することでゼロベースで人的資本経営に取り組めるという利点があります」。

近年では、地域金融機関が融資の際に、中小企業に対しても人材データの開示を求める傾向にあり、人的資本経営は中小企業にとっても無縁ではなくなってきている。

今後、広く日本企業にも求められていくであろう人的資本経営。企業の大小を問わず、今後、経営者や人事担当者は人材領域におけるROIや生産性に関する知識を身につけるとともに、HRテクノロジーを理解するためのデータリテラシー、また事業、財務、人的資本などの多様な要素を経営に加味していくシステム思考を身につける必要があるだろう。