近世~近代の秋田県教育史 藩校・寺子屋で儒学、国学の継承

古代から近世に至るまで、出羽国と呼ばれた秋田県。米、鉱山、山林が地域経済を支えていたが、江戸後期は度重なる凶作・飢饉に見舞われ、藩政の根幹を揺るがした。そうしたなか、藩校や寺子屋では武士や町人の向学心に応える教育が営まれ、偉大な国学者も誕生している。

「御学館」から「明徳館」へ
儒学を重視した秋田藩藩校

秋田藩主佐竹氏の居城だった久保田城

復秋田藩主佐竹氏の居城だった久保田城

出典:掬茶 CC BY-SA 4.0 via Wikimedia Commons

江戸中期、財政の困窮していた秋田藩(久保田藩)9代藩主佐竹義和(よしまさ)は、新たな人材を登用して財政立て直しを図ろうと1790(寛政2)年、久保田東根小屋町(今の秋田市中通一丁目)に藩校を設立し、翌年に「御学館(おんがくかん)」と命名された。義和は家臣に対し、学問を勧めるだけでなく、しばしば自身も御学館で講義を受け、また自ら儒学の講釈を行うこともあった。

藩は1793(寛政5)年、江戸から幕府の儒学者折衷学派の山本北山(ほくざん)を招いた。その1カ月半の滞在中に「御学館」は、…

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