人手不足解消への最大の近道は「年収の壁」撤廃による働き控えの防止
人手不足解消というと、外国人労働者の受け入れや社会全体のDXなど大がかりな施策ばかりが議論されがちだ。しかし、もっと単純な解決策がある。それが「年収の壁」の解消だ。
労働とは無関係な過去の制度が
人手不足を悪化させている不条理
梅屋 真一郎
人手不足は日本全体の大きな課題であり、その解決に関しては様々な議論がある。デジタル化しかり、外国人の大胆な活用しかり、日本社会全体の在り方を大きく変える提案も多数なされている。
しかし本稿では、そのような提案を一旦脇において、身近なところにある盲点を掘り起こすことが解決の一助になるのでは、と提案したい。
筆者は2022年5月にレポート「人と設備への投資による労働環境改善で日本全体の生産性向上を」を発表し、省人化などによる生産性向上と「人への投資」の重要性を訴えた。
同レポートでも指摘したことであるが、全就労者の6割弱は女性・シニアが占める。そして、その女性・シニア就労の多くは非正規雇用である。重要なのは、その非正規労働をどう戦力化するかである。
あまり知られていないことだが、非正規就労者の労働時間はこの30年間、徐々に短くなっている。その間、非正規雇用の時給は上昇しているが、結果として非正規労働者の年収はこの30年間でほぼ横ばいである。人手不足の中で、労働者がわざわざ働く時間を短縮しているのである(グラフ参照)。
このような不思議な現象が発生する理由に、いわゆる「年収の壁」が挙げられる。
「年収の壁」とは、社会保険や税制等の制度ゆえに、労働者が労働時間を短縮することで、それを上回らないように配慮する一定の年収を言う。例えば、有配偶パート女性では103万円、106万円、130万円といった幾つかの壁が知られている。
これらの「壁」の弊害は従来から指摘されていた。しかし昨今の人手不足の深刻化に伴い、「壁」の存在自体が大きな問題となりつつある。人手不足の影響で時給が上昇する中で、「壁」を気にする非正規労働者が更なる労働時間短縮を行い、人手不足がさらに深刻化する。まさに悪循環である。
なぜ「年収の壁」による働き控えが発生するのか。それは、「壁」よりも少しでも多く働くと世帯年収が年間数十万円も減少する「働き損」が発生するからである。
野村総合研究所が2022年に行った調査では、有配偶パートタイム女性の6割以上が、「年収の壁」を理由に年収額を一定以下に抑えるために労働時間を短縮する「就業調整」を行っている。人数にすると約470万人。働く女性の約2割が労働時間を短縮している計算になる。
そのような「就業調整」をしている有配偶パート女性の約8割は、「働き損」がなければ今よりも年収が多くなるように働きたい、と回答している。「年収の壁」はこれだけの労働力の減少を招いているのである。
もともと「年収の壁」が生じるきっかけとなったのは、例えば社会保険の3号被保険者制度など、労働供給そのものとは直接関係のない制度が整備されたことにある。
これらの制度は、例えば専業主婦が中心であった時代に、女性の年金権を確立するためといった具合に、その時々の社会の要請に基づき設計されたものである。
ところが社会が変化するにつれて、設計時には想定しなかった課題が生じ、そのことが「年収の壁」といった形で労働者の選択に制約を与えることとなったのである。残念なことに、このような課題は社会保険制度そのものの議論とは直接の関連性がないために、制度検討の中では放置されてきた。
いずれにせよ、年収の壁による就業調整は社会に莫大な損失をもたらしている。野村総合研究所が2024年に行った調査では、時給上昇により約210万人の有配偶パート女性が労働時間をさらに短縮する可能性がある。その短縮は、約80万人の非正規労働者が労働市場から退出する規模に匹敵する。
既存労働力の活用こそ
人手不足解消への最短の道
人手不足が深刻化する中で、より一層労働力不足を促す本末転倒な状況は、ようやく社会的にも問題視され、解消に向けた動きが現れてきた。
年収の壁対策は、日本全体としての人手不足解消にもつながる。野村総合研究所の推計では、シニア就労の促進等とともに、パートタイム労働者の労働時間を月96時間まで増やせれば、2030年時点の労働需要を満たすことができる。月96時間の労働時間は2000年代前半のパートタイム労働者と同等の水準であり、十分に達成可能であると考えられる。
日本にすでにある労働力を有効活用できなくしている同様の制約は、ここで紹介した「年収の壁」以外にも複数ある。まずはこれらの制約を解消することこそが、結局は日本全体での人手不足解消に向けた取り組みになると筆者は考える。
メーテルリンクの童話「青い鳥」をご存じだろうか。幼い兄妹が「幸せの青い鳥」を探す長い旅に出るが、家にいた鳥こそ他でもない、探していた「青い鳥」だったという話である。
人手不足解決は極めて重い課題であり、様々な対応策をそれこそ総動員しなければならないのは事実である。とはいえ、日本国内にも十分に活用されていない労働力はまだまだ存在する。そして、その労働力は意図しない制度の影響などで活用されないままで放置され続けているのである。
気付いていないだけで、青い鳥は身近なところにいる。労働力に関して日本の未来は暗いと嘆く前に、まずは十分に活用されていない労働力の掘り起こしから始めてはどうだろうか。