情報空間への抵抗とその「保全」:「デジタル社会論」がめざす人材育成
社会構想大の3つ目となる新研究科、社会構想研究科。現状を学術的に把握した上で、社会のあるべき姿を描き、政策やソーシャルビジネスを通じてそれを実現できる人材を育成する。だがそもそも社会構想とは何なのか?社会構想研究科ではそれをどう教えるのか?所属教員が全12回のリレー形式で解説する。
デジタル社会の終焉

橋本 純次
社会構想大学院大学 准教授
専門分野:地域メディア、メディア制度、公共コミュニケーション
担当科目:デジタル社会論
東北大学大学院法学研究科を経て、同情報科学研究科修了。博士(学術)。メディア研究の視点と方法を用いて、特定の政策理念が達成されない要因を明らかにするとともに、それを除去するための実行可能な具体策の提言に取り組む。
「どんな立場の人も距離を超えて自由でフラットに意見のやり取りができる場所」、あるいは「マスメディアに独占されてきた情報の流通経路に風穴を開け、誰もが情報の発信者として社会に参加できる理想の空間」として語られてきた「デジタル社会」なるものが虚像だったことは、読者諸氏にとってはすでに自明のことではないだろうか。
能登半島地震に際して収益を得るために海外から発信された大量の偽情報、巨大SNSに掲載された著名人のなりすまし(詐欺)広告、首相を含む影響力のある人物を模したフェイク画像・動画、「炎上」現象が結果的に人の命を奪ってしまう事例…。これらはすべて情報社会の実相をめぐって2024年の上半期に問題視された出来事のごく一部である。もはや現代の情報空間はプラットフォーム企業によるアルゴリズムや短期的利益を求める人間に支配され、インターネットの黎明期に思い描かれていた理想像を実現する余地は残されていないようにも思える。
L・フロリディの「情報倫理」
社会構想研究科の専門科目「デジタル社会論」の目的はこうした状況への抵抗であり、情報社会をめぐる諸問題を克服するための思想と技術を基礎として理想的なデジタル社会の構想に取り組む人材を養成することにある。
そのために本授業が拠り所とするのは、イタリアの哲学者、ルチアーノ・フロリディ(1964年- )の「情報倫理」に関する考え方である。情報倫理・情報哲学の世界的権威である同氏は、それを「環境倫理」の延長で捉える。すなわち「情報倫理を発揮する」ことは、情報空間においてモラルやマナーを守る(インターネットを安全に生き抜く)ことのみならず、「情報環境の生態系を保全する」ことをも含意するというのである。
これを前提とすると、自然環境にダメージを与えて利益を得る国や企業が環境倫理への貢献(ESG経営やSDGsの達成、情報の両面開示など)を求められるのと同様に、情報環境を「汚して」利益を得る主体は将来世代への責任として「情報環境の保全」に努めなければならないということになる。また、自然環境の保護にあたっては個人にも貢献の余地があるのと同様に、情報環境もまたそこに生きる1人ひとりの関与なしには改善され得ない。フロリディの思想は、こうした意識の変容に繫がる可能性をも秘めている。
デジタル社会の改善のために
では、具体的に何を学ぶことでデジタル社会の構想、言い換えれば「情報環境の保全」に貢献する人材を養成できるのか。これについて筆者は暫定的に、「現在直面する諸課題について対話を重ねること」と「デジタル・シティズンシップを修得すること」という2つの要素を組み合わせて各回の授業を構成し、最終的に「情報社会の負の側面を克服するための具体策を提言すること」が効果的であると考えている。
各回で学ぶ内容のうち前者については、情報技術による死者の擬似蘇生や電子投票の現状と課題、また再犯予測用アルゴリズムや医療用アルゴリズムがどのような仕組みで制御され社会にどのようなインパクトを与えうるか、といったテーマについて履修者とのディスカッションを通じて検討していく。社会人にとって、こうしたテーマを他者と共に考える機会は必ずしも多くないのではないだろうか。
また後者について、シティズンシップ(公民的資質・社会参画力)を拡張した「デジタル・シティズンシップ」の概念は、個人がデジタル社会の改善に参与するための基盤となる。本授業では同概念を「最新の情報環境を前提とした社会の限界を理解しつつ、そこで『善き市民である』とはどういうことか考え、その理想型に近づこうとする意志と近づくための能力」と定義づけ、その修得をめざす。とりわけ同概念を体系化し、優れた教育実践に落とし込む海外の教材と国内の資料を比較するなかで、初等・中等教育のコンテンツをどのように改善する必要があるか、また学校教育でこうした内容を学んだ経験のない社会人はなにをどのように身につける必要があるか、といったテーマについて議論を深めていく。
最終課題で学生は「インターネットにおけるコミュニケーション上の問題を提示し、それが生じる可能性を低減する機能を備えた新たなSNSを提案してください」または「任意の年代の社会人を対象とした『デジタル・シティズンシップ』の教育プログラムを提案してください」というテーマのいずれかを発表する。授業で得た知見とこれまでの社会人経験、さらには自らの考える「情報空間のあるべき姿」を重ね合わせるなかで、学生は自身や自身の所属する組織が「情報環境の保全」に貢献する具体的なイメージを得ることになる。
上記の問いを見て具体的な提案が思いつかない方、それでもこうしたテーマについて自分なりの意見を持ちたい方は、ぜひ本研究科の門を叩いていただきたい。あなたもまた、情報倫理を発揮しデジタル社会の改善に貢献しうる主体なのだから。