近世の京都府教育史 全国から学徒が集まり、学問が隆盛
学問・教育の先進地であった京都には、全国から遊学に来る者が絶えず、石田梅岩が提唱した石門心学をはじめ、多様な学問が花開き、私塾も盛んだった。さらに商業のあり方が大きく変わった江戸中期、商家の間では家の歴史から教訓を得て、家業維持のため店員教育に努める動きが生まれた。
多種多様な私塾が栄えるなか
二世紀半も続いた古義堂
石門心学をわかりやすく広めた手島堵庵
近世になり、政治の中心は江戸に、経済の中心は大阪に譲ったものの、学問や教育の面では相変わらず京都が日本の中心だった。最高レベルの学問を求める諸藩の家士や、立身出世を夢見る浪人や庶民などの子弟たちが、全国から絶えず京都に遊学に来ており、京都にはそれを受け入れるだけの学者および私塾があった。
数ある私塾のなかでもよく知られたのが、伊藤仁斎(じんさい)が開いた古義堂(こぎどう)である。仁斎は当時儒学の中心だった朱子学を根本的に批判して、独自の学問と思想体系を打ち立てた近世屈指の儒学者である。
京都の裕福な商家に1627(寛永4)年に生まれた仁斎は、…
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