近世の青森県教育史 藩校と寺子屋、本州最北の地における学びの系譜

江戸後期、藩政の行き詰まりを打開するため、藩校を通した官営の人材育成が進められる一方、庶民の間にも自ら生き抜くための基礎教養を学ぶ必要性が高まり、各地で寺子屋が盛んに設立された。弘前の藩校稽古館、青森と下北における寺子屋の事例から、近代に至る教育実践の一端を振り返る。

上級家臣の子弟が学んだ稽古館
現在の「東奥義塾」に連なる伝統

藩校「稽古館」創設の素地を築いた弘前藩8 代藩主の津軽信明。

藩校「稽古館」創設の素地を築いた弘前藩8 代藩主の津軽信明。

出典:Wikipedia(那須芝山 - 『青森県史 資料編近世』個人蔵, パブリック・ドメイン,Wikipediaによる)

本州最北端の城下町で藩校創設の計画を立てたのは弘前藩(津軽藩)8代藩主の津軽信明(のぶはる)だ。信明は家督を継ぐ前から、熊本藩主の細川重賢(しげかた)と親しく交わり、教えを受けていた。重賢は当時既に名君として知られ、熊本城内に藩校時習館や医学校再春館を設立した人物だ。その影響もあり、信明は学問の普及に非常に熱心であった。毎月決まった日に儒学、兵学、医学を講釈させるなど、従来の城中での講釈の充実を図っていた。だが信明は1791(寛政3)年、まだ30歳という若さで急死してしまう。

その遺志を継いで藩校「稽古館」を創設したのは9代藩主寧親(やすちか)である。創設には津軽家の年収の半分以上に相当する3万両もの費用が投じられ、…

(※全文:2425文字 画像:あり)

全文を読むには有料プランへのご登録が必要です。