近世の静岡県教育史 掛川藩校、北駿の寺子屋、伊豆の若者組

かつて遠江、駿河、伊豆と呼ばれた3カ国からなる静岡県。いずれも古来の幹線道路である東海道と太平洋に面し、近畿・関東の両文化圏と接する位置にあった。東西交流の要地では新しい思想や教育が育まれていった。掛川藩校、北駿の寺子屋、伊豆の若者組を例に、その一端を振り返る。

駿遠7藩に相次いだ藩校設立
掛川藩校の慊堂は藩政にも貢献

掛川藩校の教授として、さらには藩政への建言による多大な貢献を果たした松崎慊堂。

掛川藩校の教授として、さらには藩政への建言による多大な貢献を果たした松崎慊堂。

出典:Wikipedia(谷文晁 - 東京国立博物館, パブリック・ドメイン, Wikipediaによる

掛川城の二の丸御殿は全国的にも珍しい現存城郭御殿。二の丸御殿が残っているのは京都・二条城と掛川城のみで、国の重要文化財に指定されている。

掛川城の二の丸御殿は全国的にも珍しい現存城郭御殿。二の丸御殿が残っているのは京都・二条城と掛川城のみで、国の重要文化財に指定されている。

江戸時代後期になると、静岡県中東部の駿河および、西部の遠江(とおとうみ)の諸藩に置かれた駿遠7藩に相次いで藩校が設立された。最も早かったのが掛川藩である。第2代藩主の太田資愛(すけよし)は1802(享和2)年、掛川城内の北門側に藩校を設立し、北門書院と命名した。その後、徳造書院と改名されている。家臣団の教育と強化をねらい、城内に稽古所を設け、文武両場をあわせて教養館と称した。

教授には、昌平坂学問所の機構を一新した林述斎の門人の中でも逸材と言われた松崎慊堂(こうどう)が招かれた。徳造書院では、素読・講釈(講義)、会読(輪読)、仕付方(しつけかた)(礼儀作法)などの学習方法が用いられた。素読の教科書には、「小学」「四書」「近思録」「易経」などの中国の書籍が使われた。会読は素読を一通り済ませた者を対象として、教科書には「五経」「十八史略」「歴史鋼鑑(こうがん)」などが使われた。仕付方は素読の受業生で20歳以下の者は必修、30歳以下の者は心がけ次第出席とされていた。慊堂の学問は極めて広く、特に儒教の経典を正確に読むことを志し、…

(※全文:2560文字 画像:あり)

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