近世~近代の宮崎県教育史、明治以降を担う多くの逸材を輩出

九州の東南端に位置し、「陸の孤島」と見られがちなる日向国だが、海から見れば多くの海商たちが活躍する地域だった。また、主要な河川だけでも18もあり、港と結びついた河川交通が各地のモノや人の流れに貢献していた。こうしたなかで育まれた近世〜近代教育の一端を振り返る。

算術に秀でた延岡藩
平民にも開かれた藩校広業館

延岡藩における学問の基礎を築いた初代藩主・内藤政樹(上)と最後の大名となった第8代藩主・政挙(下)

延岡藩における学問の基礎を築いた初代藩主・内藤政樹(上)と最後の大名となった第8代藩主・政挙(下)

出典:Wikipedia

鎖国政策を取っていた江戸時代、現在の西洋数学に劣らない日本独自の和算が編み出されていた。なかでも現代数学の関数に当たる点鼠術という算法があるが、この用語を初めて用いたのが延岡藩の初代藩主・内藤政樹である。内藤家は代々学問が盛んで、政樹も幼い頃から学問に秀でていた。藩主となってからも算術や天文学などに励み、家臣たちにも奨励した。当時、全国の藩では儒学が中心となっており、算術に目を向ける藩はほとんどなかった。そうしたなか、延岡藩は最高レベルの数学が盛んな藩となった。

政樹の後を継いだ第2代政陽(まさあき)は、1768(明和5)年、日向の各藩に先駆けて城郭内に学問所と武芸所を建て、藩士に文武両道を促した。その後、第7代の政義の時代に入り、1850(嘉永3)年、学問所と武芸所は「広業(こうぎょう)館」と改められ、従来以上に…

(※全文:2569文字 画像:あり)

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