中世~近代の千葉県教育史 全国から学徒が集まる学びの都

法華宗の盛んな土地柄から有名な檀林の多かった千葉県。早くも中世には全国から学徒が集まる環境があった。房総最大の佐倉藩では、朱子学以外も含めた総合的な教育がなされ、特に医学所では蘭方医学が盛んだった。近代医学の発展に寄与した順天堂が生まれたのも佐倉の地であった。

最高の教育水準を誇った飯高壇林
各地からの学徒が修学に励んだ

日蓮を生んだ房総は、古くから法華宗の信仰が盛んな土地だった。日蓮宗寺院が数多くあり、「関東八檀林」と呼ばれた檀林(仏教寺院の学問所)のうち、5つの檀林を有していた。その中で最大規模かつ最高の教育水準を誇ったのが、飯高村(現匝瑳市飯高)の飯高壇林だった。

要行院日統(ようぎょういんにっとう)いう僧が1573(天正元)年、郷里の飯塚(現匝瑳市)に開いた学室が飯高壇林の前身とされる。後に京都から教蔵院日生(きょうぞういんにっそう)らを招き、1579(天正7)年に学室を妙福寺に移し、さらに翌年に飯高(はんこう)寺に移された。

飯高檀林には全国各地から学徒が集まり、1年間に2期の修学に励んだ。江戸時代中期、1700(元禄13)年ごろの学徒帳には、およそ450~650名の学徒と学僧の名前が記されている。新しく檀林に入ることは「新来(しんらい)」と呼ばれた。法華経を音読でき、学僧の紹介があり、仏法に基づく師弟関係ができれば、年齢に制限なく入学できた。また、ほかの檀林から転校編入する者もあった。

修学課程は初等教育課程から専門研究課程まで8段階に分かれていた。学徒が講義に出席し受講することを「勤席」と呼んだ。各課程とも定められた勤席を終了して、上の課程に進級した。欠席数は厳しくチェックされ、8課程すべてを終えるには30年以上を要したと言われる。

このように学問所として開かれた飯高檀林も、1872(明治5)年の「学制」発布により、その2年後には廃檀となり、294年間の歴史を閉じることになった。飯高寺境内の中央に位置していた講堂と合わせ、鐘楼、鼓楼、総門の4棟は、1980(昭和55)年に国の重要文化財に指定され、平成の2度の修理で当時の姿に復元されている。また、境内全体が檀林跡として県指定史跡となっている。

飯高壇林が置かれた飯高寺境内。

飯高壇林が置かれた飯高寺境内。

佐倉藩に誕生した「総合大学」
佐倉を「南関東の学都」へ

房総地方最大の佐倉藩における藩校の歴史は、1792(寛政4)年に佐倉城下に設置された学問所に始まる。1805(文化2)年には「温故堂」と改称された。幕府が正学とした朱子学を教育の基本とし、幕藩体制や人間関係の秩序を重んじる教育がなされた。

佐倉藩の3代藩主の堀田正睦(まさよし)が1836(天保7)年、佐倉城追手門前(現佐倉市民体育館)に移転拡充し、「成徳(せいとく)書院」と改称した。温故堂は儒学を中心として小規模に運営されていたが、成徳書院では医学、武術、兵学、砲術その他いっさいの教育を行い、現在の総合大学に相当する教育機関となった。成徳書院の充実により、佐倉は「南関東の学都」と呼ばれるようになった。

成徳書院には8~14歳までの幼年者が入学したが、そのうち城内居住の藩士の師弟は西塾へ、城外居住の藩士および一般庶民の子弟は東塾で学んだ。成徳書院の本部にあたる温故堂は、西塾と東塾を卒業した生徒が24歳までの10年間、儒学を学ぶ場所と位置づけられていた。

また、開校3年後の1839(天保10)年には、退廃していた藩士の士気高揚を図るため、藩政改革の一環として演武場が併設された。開明派で知られた正睦は、西洋の兵法を積極的に取り入れた。佐倉藩は1823(文政6)年から幕府に房総の海岸防備を命ぜられていたが、異国船がしばしば出没したため、兵制改革による防備強化が藩の大きな課題だったという背景もあった。

成徳書院は1871(明治4)年の廃藩置県により廃止となったが、その伝統の一端は、現在の千葉県立佐倉高等学校に受け継がれている。

佐倉における蘭方医学の発展
順天堂では治療・手術を重視

成徳書院における教育の特徴の1つが医学所である。当初は漢方医学が教えられていたが、藩医の鏑木仙安(かぶらぎせんあん)が蘭方医学(オランダ医学)の講義を始めてから、次第に蘭方医学に重きが置かれるようになった。さらに1843(天保14)年に蘭方医の佐藤泰然(たいぜん)が佐倉に移住してからは、藩の蘭方医学は大きく発展した。

江戸の外科開業医として既に有名だった泰然は、佐倉で城下に順天堂という塾を開き、診療と医学教育を行った。現在の順天堂大学・大学院および附属病院の歴史はここから始まっている。順天堂塾では書物で医学知識を学ぶだけでなく、治療・手術を重視し、塾生は内科治療や外科手術の助手を務めたり、それを観察したりして治療技術を身につけていった。当時のほかの蘭学塾にはない特色だった。全国から入門者があり、蘭方医学の塾としての名声が高まっていった。

小見川駅前に建つ佐藤尚中の像。

小見川駅前に建つ佐藤尚中の像。

出典:Wikipedia(Ibaraki101c - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, Wikipediaによる)

泰然は1859(安政6)年、藩に隠居願いを出し、養子の佐藤舜海(しゅんかい)(尚中(しょうちゅう))に家督を譲った。舜海は下総国小見川(おみがわ)藩(現香取市)の藩医の家に生まれ、泰然に入門して養子となり、順天堂の二代目堂主となった。

翌1860(万延元)年から約1年4カ月、舜海は長崎に遊学し、オランダ医師ポンペに蘭方医学を学んだ。ポンペは舜海を高く評価したと言われ、「佐藤氏は優れた外科医であり、その仕事は正確、迅速かつ極めて冷静だった」という趣旨を『日本滞在見聞記』に書き記している。

舜海は1862(文久2)年に佐倉に帰ると、順天堂塾での診療と医学教育、成徳書院医学所の藩医として医療行政の充実、佐倉養生所の設立など、多方面にわたって活躍した。順天堂は、当時の蘭方医学の最先端であった長崎の精得館と並び称されるようになり、俗に「西の長崎、東の佐倉」と言われた。

明治維新を経て1869(明治2)年、舜海は明治新政府の要請を受けて東京に移り、その4年後、東京府下に病院を開いた。病院は大いに繁盛し、手狭になったため、1875(明治8)年に湯島(文京区)に規模を拡大して移転し、現在に至っている。

(主な参考文献・資料)

  • 『江戸時代人づくり風土記 12ふるさとの人と知恵 千葉』(農山漁村文化協会)、『千葉県の歴史』(山川出版社)、匝瑳市ホームページ