佐賀県教育史 近代化を支えた佐賀藩の藩校「弘道館」

東西の人・物・情報が行き交う長崎街道に面した佐賀には、新しい知識や情報に敏感に反応する精神風土があった。とくに国際貿易港の長崎警備を務めた佐賀藩では蘭学が盛んとなり、一方の唐津藩では庄屋による私塾が盛んで、藩士の子弟が学ぶほどの高水準を誇った。

佐賀藩の藩校「弘道館」
西洋科学技術の導入にも貢献

佐賀藩の藩校「弘道館」の記念碑。大隈重信など多くの人材が巣立っていった。

佐賀藩の藩校「弘道館」の記念碑。大隈重信など多くの人材が巣立っていった。

出典:Wikipedia(Pekachu - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Wikipediaによる)

佐賀藩の藩校「弘道館」は1781(天明元)年、第8代藩主の鍋島治茂(はるしげ)によって佐賀城下に創設された。寛政年間(1789~1801年)には教育体制がほぼ確立していたが、文化・文政年間(1804~1830年)にはさびれ、就学するのは貧しい武家や身分の低い家の者、陪臣などばかりとなっていた。当時教授を務めていた古賀穀堂(こくどう)はその状態を憂慮し、1806(文化3)年に第9代藩主の斉直(なりなお)に「学制管見(がくせいかんけん)」という文書を、1831(天保2)年には「済急封事(さいきゅうふうじ)」という文書を第10代藩主の直正(なおまさ)に提出し、…

(※全文:2540文字 画像:あり)

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