近世~近代の北海道教育史 開拓使が進めた開発と教育、札幌農学校の貢献

かつて「えぞ地」と呼ばれた北の大地が「北海道」となってから150余年。本州渡来の和人の移住、および「開拓使」の働きかけによって、その姿は大きく変わっていった。幕藩体制下で例外的な立場にあった松前藩との関わりから、明治初期、外国人顧問団による教育の一端を振り返る。

えぞ交易が盛んだった松前藩
藩士たちが優れた著作物を残す

アイヌが漁猟生活をしていた「蝦夷(えぞ)ヶ島」(現在の北海道)で、本格的な交易商業を行い、支配体制をつくりあげたのは近世幕藩体制下の松前藩(別名福山藩)である。本州・四国・九州と違い、稲作のできない松前藩では、えぞ交易の権利を独占することで藩の財政を賄っていた。その点で松前藩は、幕府の大名のなかで例外的な存在だった。

こうした松前藩の上級武士のなかには、体系的な著作物や洗練された芸術作品を残した者も数多くいた。6代藩主松前邦広の5男である松前広長は、幼少より学問を好み、長じて藩の諸職務に従事するかたわら、松前藩の正史『福山秘府』全60巻を1780(安永9)年に編集した。『福山秘府』は『新選北海道史』第5巻に収載され、今なお松前藩および松前・えぞ地に関わる資料として最も重要なものの1つである。ほかにも広長は、地理書『松前志』などを編纂・執筆している。

波響の「夷酋列像」に掲載されたイコトイ(乙箇吐壹)の肖像画

波響の「夷酋列像」に掲載されたイコトイ(乙箇吐壹)の肖像画

出典:Wikipedia(Kakizaki Hakyo (1764-1826) - http://memoire vive.besancon.fr/ark:/48565/a011464266742S0yq4g, パブリック・ドメイン, Wikipediaによる)

美術の分野では、幼くして画業に優れ、江戸へ出ても画を学んだ蠣崎(かきざき)広年(波響(はきょう))の業績が目立つ。アイヌを描いた代表作「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」は1791(寛政3)年、光格天皇の「天覧」に供され、画家波響の名は中央でもよく知られるようになった。

学術・武芸に優れた人材育成を構想した9代藩主の松前章広は、1822(文政5)年、藩校「徽典(きてん)館」を創設。明治初期に最も整った松前家の家譜である『松前家記』をまとめた新田千里や、徽典館教授となって洋学を講じた関左守(さもり)など、幕末期にかけて文化的にも政治的にも活躍する人材を…

(※全文:2185文字 画像:あり)

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