近世の熊本県教育史 藩校の英才教育、私塾に見られた尊皇攘夷思想
かつて肥後国全域を占めた熊本県。九州の中央部に位置し、ほかの諸国と接するなか、近世には熊本藩、人吉藩、天領天草がそれぞれ独自の政治的世界を展開していた。54万石を有し、県随一の大藩であった熊本藩を例に、当時の藩校や私塾における教育事情を振り返る。
藩政刷新に寄与した藩校時習館
他藩にも門戸を開いた英才教育
熊本藩6代藩主細川重賢(しげかた)による「宝暦の改革」の一環として、1755(宝暦5)年に設立された藩校が「時習(じしゅう)館」である。熊本藩は54万石と大藩であったが、財政が窮迫していたため、藩政刷新のため綱紀粛正を目指し、重賢は殖産興業の奨励や法制整備などを進めた。時習館設立もその流れの1つである。
学級制度は初等の「句読生」「習書生」、中級の「蒙養生」、上級の「講堂生」、特級の「居寮生」に分けられていた。士分以下の子弟も入ることができ、推薦があれば農商の子弟でも入学が許された。特に成績優秀であれば…
(※全文:2501文字 画像:あり)
全文を読むには有料プランへのご登録が必要です。
※無料体験後は自動的に有料購読に移行します。無料期間内に解約しても解約金は発生しません。