近世の熊本県教育史 藩校の英才教育、私塾に見られた尊皇攘夷思想

かつて肥後国全域を占めた熊本県。九州の中央部に位置し、ほかの諸国と接するなか、近世には熊本藩、人吉藩、天領天草がそれぞれ独自の政治的世界を展開していた。54万石を有し、県随一の大藩であった熊本藩を例に、当時の藩校や私塾における教育事情を振り返る。

藩政刷新に寄与した藩校時習館
他藩にも門戸を開いた英才教育

熊本藩において宝暦の改革を推し進めた6代藩主の細川重賢出典:Wikipedia(永青文庫所蔵品)

熊本藩において宝暦の改革を推し進めた6代藩主の細川重賢
出典:Wikipedia(永青文庫所蔵品)

熊本藩6代藩主細川重賢(しげかた)による「宝暦の改革」の一環として、1755(宝暦5)年に設立された藩校が「時習(じしゅう)館」である。熊本藩は54万石と大藩であったが、財政が窮迫していたため、藩政刷新のため綱紀粛正を目指し、重賢は殖産興業の奨励や法制整備などを進めた。時習館設立もその流れの1つである。

学級制度は初等の「句読生」「習書生」、中級の「蒙養生」、上級の「講堂生」、特級の「居寮生」に分けられていた。士分以下の子弟も入ることができ、推薦があれば農商の子弟でも入学が許された。特に成績優秀であれば…

(※全文:2501文字 画像:あり)

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