近世の埼玉県教育史 藩校や心学校舎から多彩な人材を輩出

江戸時代には川越・忍・岩槻の3藩が置かれた埼玉県。それぞれの藩主たちは、代々老中など幕府の要職を務め、260年にわたる泰平の世の実現に大いに貢献した。藩校「遷喬館」、心学校舎「恭倹舎」、「両宜塾」を起こした寺門静軒の活躍ぶりから、当時の埼玉における教育の様子を振り返る。

唯一現存する岩槻藩の遷喬館
指定文化財として当時を伝える

私塾として生まれ、藩校として花開いた岩槻藩の遷喬館。

出典:Wikipedia(Suikotei - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, Wikipediaによる)

埼玉県内で唯一、建物が現存する藩校は岩槻藩の遷喬(せんきょう)館である。岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(なんか)が1799(寛政11)年に開いた私塾で、後に藩校となった。1746(延享3)年に甲州で生まれた南柯は、11歳で岩槻藩士の児玉親繁(ちかしげ)の養子になり、16歳のとき藩主大岡忠喜(ただよし)に仕えた。18歳で江戸の藩邸に勤務して以降さまざまな要職を歴任し、43歳で職を辞し、54歳のときに岩槻城下の一角に私塾・遷喬館を開設した。

遷喬館という名前は、中国最古の詩集である…

(※全文:2285文字 画像:あり)

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