埼玉ハンノウ大学 まち全体を「キャンパス」に、文化を自分たちで育てる

埼玉県南西部の飯能市で、まち全体を「キャンパス」に見立てるNPO法人埼玉ハンノウ大学が正式開校して3年が経過した。古くは林業で栄えたものの、今は人口減に直面する地域の課題にどう向き合っているのか。理事で学長の小野まり氏に設立経緯や現在の取り組み、今後の抱負を聞いた。

英国暮らしで見えた飯能の魅力
日本版ナショナル・トラスト始動

小野 まり

小野 まり

NPO法人埼玉ハンノウ大学 理事・学長
約15年間にわたり、㈱リクルートで複数の情報誌の編集に従事。2002年家族で英国へ移住。NPO法人ナショナル・トラストサポートセンターを主宰、英国事務局長を務める。日本でも多数の著書や講演などをこなす「二拠点生活」を送る。2018年帰国。現在は自らの体験をもとに英国式の官民連携の地方創生に取り組む。

飯能市は中心部から都心まで電車でもクルマでも1時間弱と交通至便ながら、市の75%を森林が占めるなど、豊かな自然環境に恵まれる。同市を含め、荒川支流の入間川・高麗川・越辺川の流域は西川林業地と呼ばれ、江戸時代はスギ・ヒノキなどの「西川材」を江戸に流送し、江戸城の築城にも使用されたという。かつて林業で栄えた飯能だが、近年は人口減少が続き、2005年の約8万5,000人をピークに緩やかに減少し、現在は8万人に満たない。2014年に「消滅可能性都市」が発表された際には、その1つに数えられたこともある。

埼玉ハンノウ大学(以下、ハンノウ大学)は、こうした状況を打開しようと、2019年に設立されたNPO法人だ。飯能市全体を大学の「キャンパス」に見立ててメディア化し、多様な層が参加できる「授業」を多数展開することで、新しい地域コミュニティの創出を目指す。特に域外の人々にも飯能のよさを伝える地域ブランディングを確立し、関係人口の拡大、ひいては移住定住を促進したいとしている。

ハンノウ大学の創設にあたり、理事で学長を務める小野まり氏が参考にしたのが、英国に伝わるナショナル・トラスト運動だ。もともとは東京で働く編集デザイナーだった小野氏は2002年、縁あって飯能からイングランド南西部のコッツウォルズに移住。映画「ハリー・ポッター」のロケ地としても知られる美しい街並みと田園風景が大切に守られるコッツウォルズだが、それもナショナル・トラスト運動のおかげだという。「これまでに100カ所以上の英国ナショナル・トラストの保護地を取材しましたが、どこも本当に素晴らしい。でも同時に、海外に出たことで、日本のよさに改めて気づきました」。そこで2018年に帰国すると、地元飯能に残る歴史建築を、ナショナル・トラストの手法で守ろうと思い立った。

だが、日本ではまだまだナショナル・トラスト運動は馴染みがない。そんな折、渋谷のまちを舞台に誰もが無料で学べる場づくりに取り組むシブヤ大学から、講師役として声がかかった。「それまでシブヤ大学のことは知らなかったのですが、話を聞いているうちに『この仕組みは使える』とピンときました」。それをきっかけに、トラスト活動を「ハンノウ大学」という形で起こすアイデアが生まれたのだという。

そこからの行動は早かった。シブヤ大学にも協力を仰ぎ、地元有志で「埼玉ハンノウ大学設立準備室」を設置。折よく見つけた埼玉県起業支援金補助事業に申請すると満額採択され、2019年10月に無事法人設立し、翌2020年9月に正式開校した。

活動拠点は国の登録有形文化財
地域の文化は自分たちでつくる

ハンノウ大学で「先生」を務めるのは、海外で活躍して帰国した音楽家、STEAM教育に詳しい英語講師、飯能チェスクラブの代表、臨床心理士の資格を持つアロマコーディネーター、地域情報を発信するコピーライター、薬膳家庭料理家など、地域内外の多彩な顔ぶれだ。

歴史的な建物の魅力を味わうまち歩きツアーなど、多彩な「授業」を展開する。

歴史的な建物の魅力を味わうまち歩きツアーなど、多彩な「授業」を展開する。

「オリキョー」と呼ばれるハンノウ大学の拠点。飯能市街地のシンボル的存在だ。

「オリキョー」と呼ばれるハンノウ大学の拠点。飯能市街地のシンボル的存在だ。

例えば、飯能市在住の建築家を「先生」として先ごろ開催したまち歩きツアーでは、大学生から60代まで、12名の参加者が歴史的な建物の魅力を堪能した。江戸時代から昭和期にかけての建造物が、中心市街地に数多く現存するのも飯能の地域特性の1つ。かつて花街として栄えた一角には、数寄屋造りの近代和風建築が残る。実はハンノウ大学が活動拠点にしている「旧・飯能織物協同組合事務所棟」も、飯能が誇る歴史建造物の1つだ。通称「オリキョー」と呼ばれるこの建物は、和洋折中の意匠が特徴的な国の登録有形文化財で、長く飯能市街地のシンボル的存在として親しまれてきた経緯がある。

「オリキョーのことは英国に移住する前から気になっていました。帰国して残っていることに気づき、歴史的な文化遺産として次世代に残すべきだと考えるようになりました」。このとき小野氏の脳裏にあったのは、英国で馴染みのあった「アート&クラフトセンター」だ。英国では、ロンドンのような大都市にも小さな片田舎にも、いたるところに古い建物をリノベーションした「アート&クラフトセンター」と呼ばれる文化施設が当たり前のようにある。地元のアーティストの作品が置いてあり、地域住民も観光客も分け隔てなく、紅茶やケーキなどを楽しみながら、そうしたアートに触れることができる。

「地域に住むクリエーターたちを近隣住民が応援し、文化は自分たちで育てるという考えが英国では広く浸透しています。飯能でもぜひそうした風土を育てたい。その象徴として、オリキョーを飯能のアート&クラフトセンターにできればと考えています」

文化と教育の底上げを図り
子育て世代に飯能の魅力を

親子向けの「森と音楽のひろば」は、音楽と自然のつながりを感じられるプログラムとして人気。

親子向けの「森と音楽のひろば」は、音楽と自然のつながりを感じられるプログラムとして人気。

ハンノウ大学の長期的なねらいの1つは移住者や関係人口を増やすことだ。そこで子育て世代に飯能の魅力を広めるべく、数ある授業のなかでも、「おやこのキャンパス」と称した親子向けのコンテンツには特に力を入れている。五感を通し、さまざまな木の手触りや香りを楽しむ「もくもくらぶ」、プロの演奏家の演奏を聞いたり、楽器に触れたりしながら、音楽と自然のつながりを感じる「森と音楽のひろば」など、子どもの感受性に訴えるプログラムが多い。

小野氏は「都市からほど近いにもかかわらず、自然が豊かなことが飯能の魅力。コッツウォルズにも引けを取らない大きな可能性がある」と語る。「ただし、文化的な成熟と多様な教育へのアクセスに弱い点は少し残念」とも明かす。「英国では、都会住まいよりカントリーサイドで暮らすほうがステータスが高いとされています。その背景にあるのが、郊外の文化と教育レベルの高さです」。そこでハンノウ大学の活動を通し、飯能でも、文化・教育面での底上げを図りたい考えだ。

しがらみゼロだからこそ
人々をつなぎ、可能性を生かす

長い英国滞在から帰国して5年、ハンノウ大学の正式開校からまだ3年とは思えないほど、精力的な活動を展開する小野氏だが、その活力はどこから来るのか。「しがらみがゼロからのスタートでしたから、逆に動きやすいんです」と小野氏は屈託がない。

「飯能市は75%が森林ですから、狭いエリアにギュッと近接して暮らしています。古くから市民活動をしている方々も少なくありませんが、全員が知り合い同士というスモールタウン。私にはツテもありませんでしたが、忖度の必要もありませんから、さまざまな方々をつなぐ役割を担えているのかもしれません」

「はんのう森林プラットフォーム」を通して、飯能の森林・林業の活性化を目指す。

「はんのう森林プラットフォーム」を通して、飯能の森林・林業の活性化を目指す。

目下、小野氏が注力しているのが「はんのう森林プラットフォーム」の開設だ。飯能の森林に携わる林業家や山主、企業や公的機関と共に、持続可能な森林活用を目指すプラットフォームだ。飯能の森林・林業に関する情報のほか、市内外の住民に向けたイベントおよびエコツアー情報など、森にかかわるニュースを発信していくという。

まずは今年度の下半期、「はんのう森林みらい塾」を始めることが決まっている。「森や林業に興味はあるが、かかわり方が分からない」層に向け、まずは週末1泊2日で森林・林業を学べるコースを開催する予定だ。将来的には森林・林業に本気で携わる人材の発掘や、地域資源を活かした新たなサービスを提供し、「西川林業」の復興も視野に入れるという。

さらに、まだ青写真ながら着々と温めているのが「はんのう森と音楽の美術館」構想だ。今年度から取り組んでいるプログラム「森と音楽のひろば」を発展させ、各地に少しずつ増えてきた「おもちゃ美術館」も参考に、常設の交流型ミュージアムを実現したいと考えている。

「飯能にはまだ十分に生かされていない可能性がたくさんあります。今のままではもったいない。飯能の魅力をもっと広く伝え、文化交流を図りながら、市内外の人たちをつなげていきたいですね」