近世~近代の岩手県教育史 盛岡から生まれた新たな洋学の流れ

北海道に次いで広い面積を誇る岩手県。江戸時代は県北の盛岡南部藩領と県南の仙台伊達藩領に二分され、しばしば「国境紛争」が起こっていた。盛岡藩内における洋学校「日新堂」、遠野の郷校「信成堂」、および植物採取に長けた須川長之助の活躍を例に、当時の教育の一端を振り返る。

私学の洋学校「日新堂」
蘭語から英語への流れを生んだ

岩手県北地方の盛岡藩(南部藩)では、県南部より遅れて19世紀半ば頃にオランダ医学が導入されるようになった。その先駆者は八角高遠(やすみたかとう)と大島高任(たかとう)の両名である。京都の蘭方医である新宮凉庭(しんぐうりょうてい)のもとで蘭方医学を学んだ八角は、1848(弘化5)年に33歳で帰国して藩医となった。やがて奥医師となり、種痘を施行するなどして、盛岡藩内における西洋医学の第一人者となった。1855(安政2)年に藩校明義堂の医学助教に任命されたが、西洋医学書「人身生理」を講義したことを発端として、漢方医学の教官らの排斥にあって辞職。新しい洋学校を起こし、西洋医学を伝授する決意を固めた。

(※全文:2559文字 画像:あり)

全文を読むには有料プランへのご登録が必要です。