近世の大分県教育史 藩校や私塾、寺小屋で特色ある教育
豊後一国と豊前国2郡で構成されていた江戸時代の大分県。小藩が分立していたため、県内各地に数多くの藩校や私塾、寺子屋が開かれ、地域ごとに特色ある教育が展開されていた。藩校「遊焉館」、私塾「咸宜園」、さらに2つの寺子屋の事例から、当時の教育の一端を振り返る。
年齢、学歴、身分を問わず
能力別の等級を定めた「咸宜園」
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豊後国日田郡豆田町で1782(天明2)年、商家の長男として生まれた広瀬淡窓(たんそう)は、父・三郎右衛門から書や句読を習い、幼少時から学問の道を歩み始めた。早くも13歳で日田代官の前で「孝経」の講義をし、16歳で福岡の亀井塾に入門した。福岡藩では他国からの入塾を禁じていたため、福岡の内山玄斐(げんひ)の養子となり、内山玄簡(げんかん)と名乗って入塾した。体調悪化のため、亀井塾での生活は2年に満たなかったが、淡窓の学問はここで大きく発展した。
帰郷後、養生を経た後の1805(文化2)年、豆田町の長福寺学寮を借りて、淡窓は24歳で教育活動を始めた。当初の門弟は2名だけだったが、…
(※全文:2502文字 画像:あり)
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